壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

私が終わるとき

 それは今この瞬間である。私は自分が自分であることに終止符を打つことを宣言しなければならない。自分をどう定義するか、または自分自身をどのようにして高め、よりよい状況に身を置くか、といった努力や工夫は全て本質的には無意味であったということが今になってはっきりと腑に落ちた。私の処遇についてどうするかではなく、生をまっとうする上で肝心なのは唯一つ、己自身の終焉を感得することだけだ。そこにはどんな作為や意図も入り込む余地などなく、時間も労力も必要でない。

 なぜ私は終わらなけれならないか、それは私とは問題の根本であり不幸の源だからである。それらを渇望するなら私は私であればそれで結構だ。しかしそれらを良しとしないならば大本となる根を断つ必要があり、それは正しく自分自身なのだ。問題や不幸を己から取り除き、これらから遠ざることを本心から望み求め希うならば、他ならぬ己自身を滅却させなければならない。

 問題は問題だとすることで問題となり、不幸はそれを認識することで不幸として我々に認識される。そう考えれば、これらの根本原因、問題を問題たらしめ不幸を不幸たらしめる元凶は自分以外には存在し得ないという結論に至るのは当然のことだ。どんな形や状態であれ、「我在り」と念ずればその時点で問題や不幸、不運や災厄などを「被る存在」としての私が生じ、それが本質的かつ根本的な辛苦の原因となる。このため、それらを忌避するならば私は自分であることを辞め、己を手放す試みが必要となるのである。

 究極的な問題の解決及び不幸の解消の唯一にして絶対的な手段として自己の終焉があるとするならば、それを完遂できる人間は果たしてこの世にどれだけいるだろうか。考えるまでもなくそれは決して多数ではない。つまり我々の多くは問題の解消や不幸の根絶を内心ではそれほど望んでいないというのが実情なのかもしれない。多くの人間にとって自分が自分であること、自己同一性というものはともすれば命よりも尊く、それが保たれるならば、目下の不幸や問題などは瑣末なことなのかもしれない。

 しかし私はそうではない。一個の人間として私は数多の苦しみを味わってきた。それらは世間的には大したことではないかもしれないが、主観的には筆舌に尽くしがたいものであったし、私が生涯を通して経験してきたことは、もう二度と御免被りたいようなことしかなかった。私は自身を不幸せだと感じ、自分や他者、ひいては己を取り巻く環境や状況などの全てが問題であると認識し、可能な限り自分の人生を改善しようと四苦八苦、悪戦苦闘してきた。

 しかし、それは全て徒労に過ぎなかった。自分自身をどうにかしようという試みや己の人生を好転させようとする努力の一切はとどの詰まり不要であった。その理由は先に述べたとおりであり、強いていうならば私が私である時点でそれ自体が全ての問題や一切の不幸の始まりであるのだから、私であることと問題を抱えることは不可分である。よって自己同一性を護持するならば私は憂い煩い続け、辛苦にただひたすら呻吟し煩悶し続ける。この苦しみは尽きることはなく、私は死ぬまであらゆる面倒事を被り続けることになる。

 私はもう全てを終わりにしたい。そしてそれを為すためには何度も述べているとおり私は私であることから解放されなければならない。自分自身をどう定義するにしろ、それは私を縛り付けるしがらみにしかならない。私は肉体でも精神でも霊魂でもなく、社会的な帰属や戸籍などにも拠らない。私の本質とは要するに無である。我在りという迷妄や誤謬によって人間は受難の旅をし始める。ありったけの辛苦や苦難を被り遠大な物語の主人公として自らを位置づけ、そのストーリーの中で役割を演じようとする。誰もそれを無理強いしていないにもかかわらず、人はそれに固執し苦しんでいる自分に憐憫の情を抱き、それに酔いしれ悲劇の主役としてそれを堪能する。

 私自身、人生や自己への向き合い方は概ねそういう感じであった。被害者という立場は誰にとっても非常に楽で都合がいい。自分を被害者だと思える材料が人生の中にあるなら、大抵の人間はそれを有効に活用しようとするだろう。そして自らを悲劇の主人公に見立てて自己憐憫に耽る。そのための材料とは即ち心配ごとや悩みごと、不安や頭痛の種となるあらゆる諸問題であり、それらが湯水の如く湧き出る源泉は自我である。私が何を被るか、私を悩ませる事物や存在が何かは最早どうでもよく、私が私であることが最大の懸案事項であり、乗り越えなければならない課題であるといえる。

 それは自ら命を絶って死ぬことによって達成されるわけではない。肉体が自分それ自体だと見なす考え方には私は与しない。私は人間というものが肉以外の要素も持っていると考えているから、たとえ自殺という手段を選んだとしても「私」が終わらせることはできないと考えている。むしろ自死という選択肢を取るのはとてつもなく大きな我意であり、作為的な行動である。自殺は自己の放棄とは対極にある行為だ。

 では人間の本地は精神や心、霊魂などといったスピリチュアルな何かかと言えばこれに対しても私は懐疑的である。私は不可知論者だから肉体が自分そのものだと見なさないのと同じように、霊的な主体としての魂魄というものが実在しているかどうかは断言できないし、仮に在るとしてもそれが自分そのものだと断言することはどうしてもできない。更に言えば、霊格という不滅の自己がどんな形でも永劫存在し続けてあの世に行ったり生まれ変わって別の肉体を得たりするという世界観に対しても抵抗感がある。

 私を終わらせるということは畢竟、心身のどちらにも依らないという姿勢である。私は肉ではないから自殺にしろ他殺にしろそれで滅ぶことはない。また、私は心ではないから霊的主体としての魂や精神の状態が自己の本質に直接的な関係はない。

 身も蓋もない言い方をするならば、この世界から切り離された私というものは実は端から存在しない。形而上形而下の別なく、どのような形でも確固たる自分というものが不在であると考えるとき、自他の境界線は消失する。そして更に踏み込んで考えれば、境目がなくなった時点でもう森羅万象の一切合切は極端な言い方をするならば全てが自分自身であると見なせる。私の肉、私の心がそれ以外の何かと切り離されて存在するという考えを迷妄に過ぎないと断じて捨て去るとき、己の本地は不在や無であると結論付けると同時に、この世の全てが私となる。

 肉体や精神を超越した粋に達したとき、私は完全に終了する。守られるべき自分や進歩発展しなければならない自分、得なければならない自分、唾棄するものを抱えた自分……そんな私など実ははじめからなく、列挙したこれらの諸問題も実は幻想にすぎないと知るとき、人間は被害者であることや悲劇の主人公という役割から降りることが可能となる。

 もっとも、それを腹の底から望む人間など極めて少数派ではある。先程述べたように人間はその多くは被害者として振る舞いたがり、不安や恐怖にかられ面倒事に頭を悩ませる事を内心では常に欲している生き物だ。そういう段階から脱するということは魚が陸に上がるようなもので、ある意味人間という種が次の段階に移行するステップなのかもしれない。それが高尚なものだというつもりは毛頭ないが、それが万人にとって望ましく、遂行されなければならないものではない。それを希う、実行に移すのはごく少数の奇行種のような変人だけだろうし、幸か不幸か私はそういう類いの人間なのだ。