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書き捨て山

雑記、雑感その他

自惚れ

 自分は大した存在ではない、それどころか塵芥と同等の価値程度しかないということを声高に叫び、かつ卑屈にもならずにむしろ堂々とそれを宣言できる人間は果たしてこの世の中にどれほどいるだろうか。自嘲気味にそれを口走るような人間はもしかしたらそれなりにはいるかもしれないが自負を持ってそれを言い放つような傑物はそうそういないのではないだろうか。かくいう私もそれを実行に移す勇気は持ち合わせてはいない。

 人間は自身に価値があると思いたがる生き物だ。時にそれは命よりも優先される。人は自分の生命を自尊心のために投げ打つことができる唯一の生物である。義のために死ねる動物は人間を置いて他には存在しないだろう。人間にとって自己の価値を高め保つということはただ単に生きながらえることよりも優先される場合がままある。私自身にはとても想像が届かないし現代的な感覚では理解できない感情ではあるが、国や共同体のため従容として死地に赴き、他者のために己の命を捧げるような高潔な人間が歴史上に数多いたということは改めて思いを馳せれば、恐れ入るしかない。

 それは極端過ぎるケースかもしれないが、そこまでの境地に達しないとしても私たちにとって自己の価値というものは生きる上でかなり重要な意味を持つことは疑いようがない。それを高め、維持するために私たちの人生はその大半を費やされると言っても過言ではない。自分自身を値打ちの有る存在だと見なし、そのための確認作業をするために私たちは数多くの代償を支払い、人生における相当な時間や労力をそのために捧げている。

 しかし、自分には価値があると己に言い聞かせるために人生の大半を浪費していることに自覚がある人間はそう多くはないのではないだろうか。私も最近になるまで自身の価値を如何に下げることなく保ち続けるかというある種の努力をしてきた。それは完全に徒労だったし、それに何故自分が駆り立てられるのかなど疑問に思うこともなかった。何故なら誰もがそうしているから。

 人はみな自惚れが過ぎる。自分自身が掛け替えのない、唯一無二の存在であると思い込みたく、それが言動の動機となって人間は様々な行為に及ぶ。善行であれ悪人であれ、人間が具体的に何かを行ったり言ったりする背景にあるのは自惚れだ。自分の価値を確かめたい、ひけらかしたいという自己満足から万人の一挙手一投足が始まる。

 仮に己を卑下する素振りを見せる人間でも腹の底では我が身可愛さのためだけに卑屈になっているに過ぎない。そういった手合いは自らの価値を低く見積もっているのではなく、掛け替えのない自分が苦悩しているとか悲痛に打ちひしがれているという状況に耽溺しているのだ。それは己の価値を内心では確信し、揺るぎないものであると見なしてその前提を踏まえて、にも関わらずこれだけの懊悩や煩悶に喘いでいると自他共に誇示しているのである。卑屈な者も根底には自己愛や自惚れの念を抱いている。

 自分という存在がどれだけ貴重で尊重されるべきかを自身に言い聞かせ、他人を引き立て役にしてでも己の価値を確認したいという浅ましい願望の発露として人々の様々な行動や発言があると考えれば、世の中というものが多少は単純なもののように思われてくる。一見不可解にしか感じられない人間の言動も、掘り下げて見れば自尊心を満たしたいが為の私的な理由が動機となっていると見破れば、共感も納得もできなくても少なくても理解することは可能となる。

 私は職場における人間関係がずっと分からなかった。会社というものは利潤を追求するために存在する組織であり、それに属している従業員は労使契約に基づき規定時間内に社内に拘束され、就労に従事するというのが私の認識である。ところが実情はそんな単純ではなく、売上や利益などとはまるで関係のない事柄について固執する社長などの上役の思いつきや自己満足のためにどれだけの煮え湯を飲まされ、全くもって無駄かつ無意味な無駄骨を折ってきたことか。気に入らないとか、けしからんといった理由で必要もないのに会社に拘束されたり給料を減らされることさえあり、私にとってそれは不当な仕打ちでもあり上役連中の行動の源泉にあるものが何なのか理解できなかった。

 近頃ようやく腑に落ちたのだが、上役、特に社長は会社を利潤を求める為の組織ではなく、自分が優位に立てる小集団だと見なしており、結局のところ第一義は売上や利益などではなく自分にとって気分がよくなれるかどうかなのだ。そしてその「気分がいい」という心持ちは畢竟、自分が敬われ尊ばれ、皇帝や君主のごとく恭しくされる待遇の中で、己自身の価値を確信できる状態を指すのである。

 会社は金を儲けるための集まりであるというのは表向きだけ見た皮相的な解釈にすぎない。その中で主要な地位を占める者、とりわけ社長などといった類いの人種は利益や利潤などよりも組織の中で自分が思い通りに他人を操作することに至上の喜びを覚え、それを追求するために会社を経営しているという面は間違いなくある。これは単に目下私が働かされている会社の社長だけが際立って異常で、その人間にのみ当てはまるかと言えば断じて違う。これまで幾つもの職を転々とし、多種多様な人間の下で働いてきたが、本当の意味で損得勘定のみで動いている者は皆無であった。大抵はいい肩書に食わないとか、組織に対して献身的でないとかといった理由、つまり私が自分ないし自分が采配を振るっている組織のに対して私が恭順さを示さず、心身ともに隷従しないことに対して憤る者ばかりであった。このような言動を露わにする者どもの性向の根本にある性向は、とどのつまり自惚れなのである。

 利害得失や損得勘定だけで万人が動くだけの世の中なら、この世は楽園だろう。かりにそうならそこには単純さや明快さだけがあるだろう。だが我々が生きる世界はそうではなく、理不尽かつ不条理、複雑怪奇にして難渋である。それらの源となっているのは詰まるところ個々人の自惚れによるものである。私たちは実は欲得だけで動いているのではなく、己の価値を確保したり自認したり喧伝したりといった、つまり自分には値打ちがあって掛け替えがなく、尊重され崇敬されるべき存在であると思いたいという願望があらゆる行動の動機となっている。

 自分を含め余人のその殆どが支離滅裂だったり道理や合理に反した言動に及ぶのは全て自惚れのためだと断言する。私たちにとって実利など実はどうでもよく、自尊心や自己愛が満たすことはそれよりも遥かに優先順位が高い。実益を求めて組織された集団でもそれは変わらず、そこで要求されるのは単純な売上や利益よりむしろ目上の人間への献身や奉仕、滅私の姿勢である。それは本当は間違っているが、実のところそんな間違った理由で会社などの組織は存在し、運営されている部分があるのは否めない。

 自惚れが生み出すのは悪徳と非生産性、被害と損失といったものだけだ。自分には価値がある、一目置かれて当然で、敬われ顧みられるべきであるなどと思い上がる現代人の悪癖は、私たちに不幸や不都合だけを与える。私はこれまで、この世の生き辛さは自他の自惚れによるものであると見抜くことすらままならなかったが、今日ようやくそれに気付いた。

 他人のそれはどうにもならないが、少なとも自己が抱く驕傲や不遜については見逃さずに改悛していきた。何よりそれは私自身を醜悪にし、多くを損なうだろうから。