他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

叶わないという幸福

 引き寄せの法則をはじめとした願望実現系の自己啓発やスピリチュアル関係の分野にずいぶん長いことかぶれていた。未だにそれらに対する未練を捨てきれていない感が我ながらあるのだが、意識や思考の表層においては既に半ばこれらには見切りをつけた立場を取れるようにはなりつつある。

 しかし、願いが叶うとか思考がそのまま現実に反映されるといった夢のある言説は以前私の興味を引き続けるトピックだ。余人の多くと同じく、私にも多くの望みや願いがあり、それらが全て好ましい形で実現するとしたらどんなにいいだろうかと頭のなかで夢想を繰り広げることは日常茶飯事だ。

 個人的な欲望を一々書き連ねることは控えるが、私は貪婪かつ強欲な人間だということだけを明記するのみに留める。そんな私が胸中に秘めたる欲や望みが一から十まで仮にもし叶ってしまうとしたら、それは本当に私を幸福にし、満足たらしめるのだろうか? 建設的なものや生産的なものに限らず、頭のなかで思い描いたあらゆる思考や空想の一切合財がだ。

 私たちが念じることは必ずしも自分にとって都合のいいことばかりではない。人間が抱く想像や思念の中には私たちに有害であったり痛めつけたりするようなものも数多あるだろう。そういったものまで十把一絡げで全て実現してしまうとしたら、考えてみるだけでもぞっとする。

 私は幼い頃から自分の願いが成就しないことをずっと不服に思ってきた。貧しい家に生まれ遅れた土地で育ち、不本意な進路を選ばされ望まない職場で使役され、妥協した結果の献立に基づいた食事を摂り、好ましくない寝床に就く。子供の頃から現在に至るまで、一貫して私の生涯は概ねこういった具合であった。こんな人生を送っている最中にあっても私は一丁前に妄想をたくましくして、雑多な願いや望みを抱き、薔薇色の素晴らしい生活、一片の悔恨も抱く余地もなく本懐を遂げられる人生を夢見てきた。

 また私はそれと同じかそれ以上に望ましくないものに対しても想念を絶えず抱きもした。自分が事故に遭い死ぬ場面を戯れに想像してみたり、刃物を扱っている最中に持っているそれで体を深く斬りつけるイメージを想見したりといったことは朝飯前で、仕事に於いて取り返しのつかないミスをして客や上司に詰問されている情景や、前触れもなく恐ろしい大病に冒され今際の際に苦悶しながら絶命するシーンを妄想することすらある。そんな日常の中で脳裏を駆け巡る心象の一つ一つは私を戦慄させ、それを振り払いつつ生きるのは大儀なものである。

 しかしそれらはただの一つの実現しなかった。私が頭のなかで思い描いていた多種多様な未来予想図と現実で私が送っている生活は全くかすりもしなかった。今にして思えば、想像通りにならないのはかなり幸福な側面もあったのではないかと思う。あらゆる想念が逐一実現したとしたら、私はこの世の全てを手中に収めあらゆる欲望を満たしつつもネガティブな空想も全て現実の事象として被り、阿鼻叫喚七転八倒の果てに無残に死ぬことになるだろう。

 人間にとって想像力は諸刃の剣というより、否定的かつ悲観的な思念や自身を害する内容の妄想の方が自身が浴する好ましい結果などといったイメージよりも圧倒的に多いのではないだろうか。仮にもし人が思い描いたものを何もかも現実化できるようになれば殆どの者にとっては悲惨な結果を招くだろう。そういう見地に立って考えてみれば「思い通りにならない」のは幸福なことだと言えるのかもしれない。

 ポジティブな空想は作為的に行うものだが、ネガティブなそれは意識することなく自然に惹起される。私たちは己の願望を自在に制御する術を持っていない。思ったことが願い通りにならない事を嘆くよりも先に、願うことそれ自体もまた私たちにはままならないという自覚を持つべきだ。

 私たちは好ましくない未来や結果について思い描くとき、どれほどの精神力を空費しているだろうか。改めて考慮してみれば、私たちは望ましくない思弁や妄想にとてつもないエネルギーを割いている。それ自体が全くもって無駄でしかないのは言うまでもないが、そんなものが現実化しないことは大変有り難いことだ。

 人間は望まないことを想像する生き物であり、思惟や夢想すら自分の思い通りにすることができない。そんな私たちが抱く一つ一つの願いが成就しないことが、そもそも一体何が問題だというのだろうか。好ましくないことを空想する私たちの内面が現実の状況や環境に反映されないことは却っていいことのように思えてならない。

 私たちは自身の内面にこの上なく価値があると思ってしまいがちだが、それは果たして本当に正しいのだろうか。好まない、望ましくない考えや予感で脳内や胸中が横溢している私たちの内面が、何故尊く貴重で価値があるといえるのか。私たちは自分の精神や心、思考や感情などといった代物をあまりにも重宝しすぎているのではないだろうか。

 自分の願いが叶わないことを問題視する背景にあるのは自身の精神活動に重きを置く価値観だ。己の内面に対して買い被りすぎているから思い通りにならない現実に失望させられたり傷ついたりする。大切なのは自分の願いどおりに事が運ぶかどうかではなく、自身が抱く願望に重きをおくかどうかという視点だ。

 願うことや願いの内容に対した値打ちはないと断じればそれが実現するかどうかにはもう頓着する必要がなくなる。無論望ましい結果がもたらされたり好ましい状況が作り出されればそれはそれで結構なことだが、そうならなくても特に一喜一憂することはなくなるし、そういう視座を保つことで人の精神は頑強になるのではないだろうか。

 期待せずに祈り、願うという姿勢こそ肝要だ。願いや望みなどは所詮突発的な発作のようなものでそれがどうなろうと執着する必要など初めから無い。それよりも不本意な形で頭をよぎる不吉な想像や自身を害する妄想に沿った形で自分を取り巻く状況が展開されないことに安堵するべきだ。先に述べたように人間は後ろ向きな方向に想像力を働かせる生き物だから、それの通りの現実が具現化しないことに感謝すべきだ。

 人間は自分の願いの卑小さを肝に銘じるべきだ。自分が常日頃どんな想念を抱いているかよくよく自覚すれば、それの大部分は雑念や無意味で否定的な妄想にすぎないと分かるだろうし、それがそのまま実現しないことむしろ胸を撫で下ろすだろう。

 望みを抱く自分をどれほど大事に思うかが論点となるだろう。「願う私」に価値を見い出せば見出すほど叶わなかったときに落胆や失望の念を持つことになる。それを重んずれば重んずるほどに叶わないことままならぬことが大問題となっていく。

 その問題を解消するのは叶えることでも成し遂げることでもなく、望みを持つ自分自身にそもそも価値を置かないことだ。しかし価値がないからと言ってそれを否定するのではなく、価値を見なさいが望むことはやめないという中庸的な立ち位置を保つことでいろいろな面で釣り合いが取れる。

 望むことも叶うかどうかも要するにどうでもいい。むしろ人間が頭で想起することはネガティブなことばかりなのだから「意に沿わない」のはむしろ幸いだと心得る。それくらいに考えたほうが精神衛生上良くまた、期待はずれだったり肩透かしを食らうことに心の耐性をつけられる。

 逐一望み通りにならないからこそ杞憂というものがある。それは人間にとっていい兆しなのだから、願いが叶わないのもまた喜ばしいことである。