書き捨て山

雑記、雑感その他

くそったれ

 生きる上で排泄行為は屈指の重要度を誇る。栄養補給や呼吸などといった事柄は大っぴらにされ、生きるためには欠かせないと誰もが認めるにもかかわらず、それと同等に大切な行屎送尿、つまり小便をしたり大便を垂れる行為についてはまるで顧みられることもなく、表向きにはむしろ憚られる話題と見なされるのは私にとっては甚だ不思議に思われてならない。

 生きとし生けるものは大小の別なくみな糞っ垂れだ。排泄行為と無縁であるということはつまり生命活動を停止した存在、つまり死者のみである。だから生きているということは日常的に糞をひり出しているという事実と完全に符合し、生者であることと糞っ垂れであることは完全に等号で結び付けられる。ウンコをすることは生きている者の特権であり、排泄について大いに語り弁舌を振るうことは生命への賛歌に他ならない。

 確かに排泄物は細菌の塊であり伝染病などを蔓延させる代物ではある。しかしそれは大便を始めとした排泄物が不潔であるという客観的な事実をただ愚直にいい連ねているに過ぎず、排泄という行為に敷衍して当てはまる話ではない。

 更に言えば汚いという一事をもってそれを完全に排除し忌避するのは狭量ではないか。不浄だの不潔だのと言い立てたところで、それが生み出すのは言うまでもなく私たちの肉体だ。それについて拒否・拒絶するということは即ち我々自身を、ひいては生命そのものへの否定に繋がる。生と排泄は不可分であり、一方を肯定するならば他方もまた無下にはできないのは自明だ。

 排泄物は下水処理され、再びこの世に放たれる、水中でも地上でもそれは栄養素となり人間以外の生物の糧となり、それが動植物を育み巡り巡って食料となって人間の口に運ばれる。そして私たちは食事として摂取した内から不要なものを老廃物とともに糞尿として排泄する。生命の輪環の中で人間が排泄した大便や小便は様々なものに形を変えるが結局は再び私たちの口に入り、我々の肉体を組成する要素となる。言い換えれば私たちの血肉、骨や神経、脳髄に至るまで元を辿れば大便であるといっても過言ではない。

 大便から肉体は成り、それから意識が芽生え、精神が生み出され思考や感情が引き起こされる。形而上的な精神活動や感覚や情緒といったものも根源となるのは実は排泄物であると言っていい。どんな高邁で崇高な心も体がなければ成り立たず、その肉を形作るのは食べ物であり、どんな食料も栄養無くしては生産されない。栄養とは要するに「肥やし」であり身も蓋もない言い方をすれば糞である。

 糞は我々の本地である。精神の土台としての肉体を作る食料の起源は他でもない糞なのだから、我々が心や精神を尊ぶならば、その礎となる糞を礼賛しないのは道理に適わない。人糞はこの世の根幹であり、全ての始まりであり終わり、アルファにしてオメガ、つまり神そのものであると言えるのだ。

 糞が我々の根源であり、糞が神そのものだとするならば、人間の本質は実は神であるという一見不遜な結論に帰結することになる。しかし、それは正しく真実に他ならない。我々は自身の根本、本地が糞であると確信し、人目を憚ることなく声高に叫ぶ時、私たちは自分の本性が神なのだと悟ることになる。糞は神仏の本地が垂迹した化身であり、それは私たち自身の正体だった。

 山川草木悉有仏性という言葉がある。これはこの世の全ての存在に成仏できる可能性や仏としての要素が内在しているという意味の仏語だが、この仏性とは詰まるところ糞である。むき出しの混じりっけなしの真理とは、我々が排泄する大便や小便それ自体なのだ。

 森羅万象は厳密な意味で言えば全てと関わりがある。この関係性は前述の生命の輪環が正しくそれで、それにおける主役は人間ではなく糞であることは火を見るよりも明らかだ。この世の実相は糞の循環であり、人はその大きな運行の中で一時的に存在する一形態に過ぎない。我々の本質はあくまで排泄物であり、それ以外の一切はうたかたの夢でしかない。

 人があるところには命があり、命があるところには糞がある。糞は命の源であり、それによって人間は皆等しく生まれることができるしまた、生きていられる。この真理を否定したり目を背けることは迷妄以外の何物でもなく、これに異を唱える者は単なる無知蒙昧の徒でしかない。

 神聖にして不可侵なものは触れることが憚られるが、糞もまた同じである。一見不浄なものであってもその実相について深く知るものはそれに対して畏敬の念を抱くのは必定だ。我々が存在できるのはこの世を糞が様々な形で巡っているからであり、我々を形作るものも元を正せばそれである。人間に対する形容として糞袋という言葉があるが、糞袋ではなく糞そのものが人間であると考えるのが正しい解釈である。

 人と神と糞はそれぞれ上辺だけ別の形で顕現しているにすぎず、それらは深いところでは同根であり、同一である。一切は糞の名のもとに等価であり同質である。私たちが糞を垂れる時、その行為は生物としての最も創造的な瞬間であり、それによって我々は偉大にして深遠なこの世界の運行に威風堂々と参画するのである。

 人間の存在の根本が糞であるならば、人の営みによって生み出された全てもまた糞がもたらした代物であると見なすのが筋だ。どれだけ秀麗で荘厳な芸術もそれが人の手によって創られたなら、それは元を辿れば糞による被造物である。糞によってもたらされたものはどんな見た目であれ糞であり、またその事実は称揚され讃えられるべきものだ。

 生きるには呼吸や食事を欠かすことはできないが、それと同等以上に重要なのは重ねて言う通り排泄だ。生即糞とはありのままの真理実相であり、我々は自分自身が何を行い、何によってもたらされるかを常に自覚しなければならない。逆に言えばどれだけハイブラウで高踏的な振る舞いをしたところで万人は皆等しく糞以外の何者でもないということでもあり、この点において全ての人間は同類であると言える。

 くそったれは生者である証であり、それは褒め言葉である。人間の寝食の果てにあるのは排泄であり、糞を垂れることは生活における最終的な帰結でありまた目標である。人間の暮らしの全ては排泄の為にあると言っても過言ではない。排泄のために人は飲み食いをし、働きそして眠る。人間の一挙手一投足の全ては最後は排泄に結びつく。

 逆に排泄が不可能なら人間は生きられない。便秘は最悪の場合は死に至るということはあまり意識されないが歴然たる事実であり、市に直面しなくとも通じを良くしなければ健康的でないというのは常識であろう。

 また、排泄は人間にとって避けがたい宿命である。どれだけ華美な装いをし、気品ある振る舞いをしても、結局のところ糞と無縁な生活を営めるものなどこの世には絶対に存在しない。偽り隠してもそれは厳然たる事実であり、それに限って言えば一人の例外もなく完全に我々は平等なのである。

 逆に糞を垂れない人間は死人である。排泄と無縁になることは即ち死を意味する。そう考えれば排泄物や排泄行為を愛好する性癖は正常であるようにも思われる。排泄とは生者の特権であり、それは生そのものだと言えるからだ。

 汚穢を忌避し拒絶する姿勢を取ることは自ら死に近づく行為である。それは生を否定することでもある。生きることに明るい者はそれの根源やそれが最終的にもたらすものを肯定すべきであり、畢竟それは糞尿を賛美することだと言える。