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書き捨て山

雑記、雑感その他

楽しさ

 楽しいという感情は損得勘定や勧善懲悪などといったものを超越する。楽しければ人は損をすることを厭わず、どんな悪いことにでも平気でも手を染める。それについての実例は枚挙に暇がないだろう。私自身思い当たるフシはたくさんあるし、それらのうちには社会的に明らかにやってはならないことも含まれていたと思う。

 楽しさや面白さといったものは人間の行動を決定づける屈指の要素だ。楽しいという動機はともすれば何者にも勝るものになるのかもしれない。金儲けも結局は楽しい生活がしたいからするのであって、単に金銭をかき集めるだけにやるわけではない。健康を志向するのも最終的には楽しい生活を営みたいという理由がある。

 楽しむためにする、楽しいからやる、思えばただそれだけで十分だ。どんな難渋な理由付けも大義名分も本当は必要なく、ただ面白がりたい、楽しみたいという思いだけで人は生きられればそれだけでいいはずである。

 しかし私たちの実生活を顧みれば、世の大半の人間はそういう楽しさ・面白さ至上主義的な生き方を実行に移しているとは言い難いのが実際のところであろう。口先だけではそういった類いの発言をするものはいるかもしれないが日々の瑣末事に追われつつ生活する私たちは、楽しむことや面白がることをいつしか失念し、損得や善悪などといった基準で思考し、行動するようになる。そしてそれが大人としての然るべき振る舞いや生き方だと見なして自身を正当化する。

 生活を安定させ物理的に豊かになろうとするのは人生を楽しむためだろう。しかし私たちは楽しみながら生きるという姿勢を得てして忘れてしまいがちだ。蓄財や生活の維持という手段が知らぬ間に目的にすり替わり、私たちは自身の本懐を見失う。自分がなんのために生きるのかなどといった自問は日々の生活を楽しんでいる者にとっては無縁だろう。

 私自身、思い返してみれば生涯における様々な努力や苦労は本来なら毎日を面白おかしく暮らしたいという単純で素朴な目標のためのものであったように思う。しかしそんなシンプルな願いをどういうわけか失念し、それとは全く無関係な事柄に執着し拘泥するようになっていた。実利的な案件も生きるためには無視できないが、それが肝心要の一大事であるかのように錯覚すると本質を見誤ってしまうだろう。生活を維持するのも他人の会社に隷従することに甘んじて日銭を稼ぐのも単に生活を楽しくするためものであり、その本当の目的が成就されないならば金や職のことなど問題にもならないはずである。

 私は鄙びた寒村の生まれで貧しい家庭で育った。そういった環境の一体何が問題なのかと言えばそれは畢竟つまらないの一語に尽きる。文化文明に浴することは稀なことであり、欲しいものも滅多に手に入らず人生における選択肢も都会で生まれ育つ人間と比べれば比較にならないほど限られたものであった。楽しくない、面白くない、私にとって田舎での貧しい暮らし、人生、生涯は単にそれだけであった。

 貧乏の何が悪いかといえば結局のところつまらないのだ。何も買えず何もできず、どこへも行けない。田舎の悪い点も殆どこれらが当てはまるだろう。私は田舎で生まれ育ち、自分が生まれ育った町や家庭環境などをひたすら問題視し、忌み嫌った。しかし自身が身を置いている状況や環境の何が気に入らないのかについて明確に意識することはなかった。

 私は単に楽しく面白い人生を送りたかった。私は現在都会で暮らしているが、仮にそれが田舎でも実現可能だったなら私は故郷を捨てる必要なかったかもしれない。それは万に一つも有り得ないことではあるが、親元で楽しい生活があったなら、と今となってはふと思うことがある。

 今の暮らしは都会で一人暮らし、俗に言うところのワーキングプアである。貧乏は都会か田舎かは関係なく、人生における大きな問題である。しかし世間一般においては貧しいことの何が問題なのかについて本質的な事はあまり言われていないように思える。結婚できないとか、老後の生活が行き詰まるだとかせいぜいそのようなことしか言われいないのが実情だろう。

 楽しくなく、面白くないことが実のところ一番にして唯一の問題だ。そしてそれは金さえあればいいということではない。更に言えば、楽しく面白い人生を送れさえすれば金の多寡などは大したことではないと言い切ってよい。それが実現するかどうかはどうでもよく、自分が本当に求めるものや目的とするものが何なのかを見失わないようにすることが大切だ。

 これは生に対してどのような姿勢で臨むかであって、生活が安定しているかどうかや物質的に豊かであるかどうかは決定的な自由にはならない。無論それは大きな要因ではあるが、それらの条件さえ満たされればその時点でそれが達成されるわけではない。私たちはどんな瞬間においても人生に対してどんな態度で向き合うかを問われている。態度や姿勢こそが人間が生きる上で最も重要であり、それによって私たちは己の生涯を楽しめるか、面白いと思えるかが決まってくる。

 人生を楽しむ態度を涵養する為に必要となるのは知恵や知識なのではないかと最近になって思う。いくら金銭や時間に余裕があり、豊かで便利な環境下に居たとしてもそれだけで人間は生を謳歌することはできない。私たちが自身の生活の中に面白さや楽しさを見出すには知識なり経験なりが実は不可欠であり、そういったものがほんとうの意味で言うところの教養と呼べるのではないだろうか。

 私はずっと自分の人生をつまらないと思ってきた。そしてその原因は貧しい家庭や遅れた田舎で暮らすことや、割に合わない卑賤な職業に従事するしかない身の上によるものだと考えてきた。しかしそれは根本的な誤謬であり、私が己の生涯を面白く思えない理由は教養の欠如によるものであったのだ。

 賢いものは人生を楽しみ、愚かなものはそれを呪う。この世はどんな時も個々人に問いかけ続けるのだ、「人生を楽しんでいるか」と。それはどんな理不尽や不条理に直面し、悲惨や辛苦の渦中にあっても全く変わらない真理である。人間はどんな局面においても己の生に然りと言うことが望ましい。

 侮られ嘲られ虐げられ蔑まれ、騙され奪われ痛めつけられ……。往々にして人生とはそういうものだ、少なくとも私のそれは。しかしそれでも私は自身に与えられた生に対して楽しさや面白さを見出さなければならない。これは意地や矜持なのかもしれない。自分の人生に誇りを持つということは人生に然りと答えることであり、それに必要なのは機知や機転、智慧である。

 プライドがある人間はつまらないとか面白くないなどとは言わないし思わない。そんな念が頭をよぎる時、原因は常に己の中にある。自身に一切の非がないように思われても弱音や泣き言を言うべきではない、胸中に一片でも誇りがあるのなら。

 それができないのは無知や弱さである。楽しめないことは軟弱さの現れであり、頑健で屈強な精神は苦境や艱難にあっても面白がれるだろう。その域に自らを達せしめるための修業の場としてこの世界が用意されていると考えれば、人生は挑戦に満ち溢れていると言える。

 楽しめるのは強さの証であり、人生を謳歌できるのは香車のみの特権である。私がそれに属するかどうかは明言できないが、生涯通して志向すべき境地がはっきりと見えただけでもそれが分からない段階と比べればずっとマシであると言えるだろう。