書き捨て山

雑記、雑感その他

平等

 人間は皆等しく平等に価値がない。外見の美醜や知見の多寡、どんな社会的な地位を持っていようとも一切関係なく万人は無価値であり、そういう意味で等価である。顧みられるべき者など誰一人存在せず、敬うべき人間も恐れるべき人間もない。人間存在の根本が無価値であるならば、どのような関係性によって気づかれた間柄であってもやはりそれは無意味であり、大切ではない。肉親であれ赤の他人であれ、人間は他者という存在に対して敬意や崇敬などといった感情を抱く義務など一切なく、「大切な人間」と呼ぶべき存在はこの世に誰ひとりとしていないと喝破すべきである。私たち誰も大事ではないというスタンスに立ってはじめて公平に人間全般を知覚することができる。ただしそれは無価値であるというだけであって軽んじていいということではない。

 価値が無いということと価値が低いということは全く異なる。軽んずる、値打ちを低く見積もるという行為は、価値という基準や尺度でもって対象を値踏みしている。そのようなスタンスは「人間を無価値なものとして見なす」思想とは全くかすりもしない。本稿において述べられる「人間無価値論」は要するに価値という物差しを取り払って他者を認識すべきであるという主張である。軽蔑や見下しといった類いの感情は相手を自分よりも価値が低いと見なすが故に起こる。それに対して相手に価値がないと見る姿勢からはそれらのような情緒が引き起こされる余地は一切ない。無価値と見つつもそれに対して尊重する姿勢を崩さないということは別段おかしくもなく、難しいことでもないと私は考える。

 しかし、私たちは得てしてこの世に重んずるべき何者かが存在する、若しくは存在しうるという迷妄に陥る。それはお人好しさというよりもむしろ、愚劣な良心に起因するものであると言えるかもしれない。他者を尊重することは大切であり、人として望ましい振る舞いであるというようなことを我々は学校などで教え込まれるし、メディアを通してそのような思想を植え付けられながら私たちは育ち、生きているからそのような誤った見識を身に着けてしまうのは無理からぬことではある。しかし、他者を敬うべきだという感情はその対象に嫌われたくない、よく思われたいという思いを生み、結果そのような思考が私たちを縛り付け、それによって恐怖がもたらされ私たちは生きづらくなっていく。結局のところ、他人に重きを置く考えというのは我々にとって精神的な負荷を強いるし、それによって苦しみが増すから有害であると言える。

 この世に尊く大切な人間がいるという誤謬から対人関係の苦悩が始まる。他者から嫌われたくないという思いは、他人が無条件に価値がある存在でありまた自分に対して何かをもたらしうるという前提によって支えられている。しかしそれは想像上だけのものでしかなく、それを実証する根拠など実は全くない。にも関わらず私たちは他者の価値をどういうわけか盲信してしまうから他人というのは根拠もなく我々にとって価値ある存在だ。そんな対象に嫌われまいように、ひいては好かれようとする試みの不毛さは改めて考えれば馬鹿らしいことこの上ない。そしてこのバカバカしさが対人関係の苦しみの源である。

 このような誤謬、迷妄の只中にあっても人間には嫌われてもいい対象というものがある。そういう人間に対して、私たちは価値があるとは見なしていないはずだ。好かれなくても問題ない相手は大抵自分が見下せる存在である。そこから端を発し、侮蔑や嘲笑といった情緒が生み出されるのだが、それも価値という尺度においてマイナスに振れているから起こる現象であり、これは他者に価値があると考えることと対極であっても無関係ではない。

 蔑むにしろ敬うにしろそこには他者を値踏みする姿勢がある。そして他人の価値を推しはかる行為や魂胆の根底にあるのは傲慢さだ。仮に最大限に相手を尊重し、崇敬の念を抱き表明したとしても、それを行っている人間の腹の底にはとてつもない驕慢さが宿っている。自らの身勝手で無根拠な判断で相手をどの程度の存在であるか計測し、それに基づいて態度を決めたり変えたりすることは、その結果が何であれ醜悪である。恭しさの中にも思い上がりや自惚れがあるものだ。自分の中にある価値の物差しを絶対視してそれに従って他人に判断を下すのは相手を単にないがしろにしているだけだ。

 本当の意味での敬意や尊重というものは価値という尺度や基準を放擲してはじめて可能となる。他者を丁重に扱うということは人を値踏みする軽率さとは対極にあるということを私たちは知らなければならないが、世間での人間関係は往々にして他者の価値を計測して判断するという無粋な域を脱していない。私たちの社会が息苦しく、生きづらいものである大きな原因の一つとして、値踏みしたりされたりする関係性というものは厳然としてあり、その根源となるのは価値という概念そのものであると言える。人は一人の例外なく無価値であり、その上で平等である。さらにだからこそ私たちは人を分け隔てなく尊重しなければならない。

 そしてこの命題は自分自身にも当てはまる。他ならぬ自分自身もまた「無価値」である。他人や他者だけに価値がなく、自分だけは唯一無二で値千金と考えることもまた無明を彷徨う入口となる。自分が絶対的に価値がある存在であると考える時、その価値ある私を喪失したり値打ちが減じる可能性が生じる。そんな喪失への懸念は恐怖を生み出し、それによっても私たちは苦しむことになる。自惚れや自己愛は自身に価値を付与するが内心ではそれを失う可能性を常に孕むこととなり、不安の種となる。

 己の価値が塵芥に満たないのだと確信したとき、そういう憂いや煩いから人は無縁となる。自分自身は価値が低いのではなく、「ない」と気づけば、価値という尺度で自身を測定する必要がなくなり、それに付随するあらゆる煩悶から解放される。私に価値などないのだと断言したとき、その叫びが人をエンライトメントに導く。そこに至るにはなんの工夫も努力も無用であり、その先には一切の迷妄も苦悩も存在しない。

 何人たりとも貴重でもなく崇敬すべきではない。そういった姿勢を貫いてはじめて人は自分も他人も受容できる。値踏みから始まる判断は自他共に苦しみしか生み出さない。何かに価値を見出すとき、同時にそれ以外を低く見ると表明しているも同然である。価値あるものの裏には常に貶められる何かがあり、自分ないしそれに属する何かが後者に分類されかねないネガティブな可能性がある。そんな懸念が人間に与える精神的苦痛は計り知れず、それから逃れようとすることは必定である。そしてその解決としては価値という基準それ自体を「ない」と断ずること、無価値だと確信し断言することなのである。

 自他への幻滅や失望こそが人間にとっての福音である。万人にとって不朽の価値を保持する何かなどこの世には絶対に存在せず、自分自身もまたあらゆる意味で価値を持ち続けることは能わない。価値あるものはいつかその値を下げるし、尊ばれるものは遅かれ早かれ何かによって、あるいは何者かの手によって貶められる。それ自体やその可能性が人間を苦しめる原因となることは何度も述べたとおりである。そしてそれからの救済、解放を希求する人間は価値という物差しが絶対でないと知らなければならない。それに拠ってしか我々が救われる術などありはしない。