他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

人生終わり

 人生は物語そのものだ。私たちは過去現在未来というシリアルな出来事の羅列を自分自身という主人公を中心にして体験しつつ意味付けながら生きている。私たちは人生の当事者でありながらオーディエンスでもあり、自身の生涯を現実として体験しつつもそれをコンテンツとして享受している側面もあると言える。そういう観点で己の人生がどのようなものだったか振り返ってみると、私の人生とはなんと「悲劇的」だったことか。

 私は常に自分を不幸かつ不遇な人間であると見なし、人生というシリアスな悲劇を演じてきた感がある。生まれも育ちも悪く、色々なめぐり合わせにも恵まれず、現在進行形で平均以下の惨めな暮らしに甘んじ、将来の先行きも暗い。そんな生涯を映画やドラマのストーリーに見立てるならば、それは紛うことなき悲劇であり、それの主人公たる私はさしずめ悲劇の主人公といったところになるだろう。
 私は客観的に見て社会的弱者である。悲惨で卑賎な身の上で這い上がることも前に進むこともできず、貧苦に喘ぐ最低最悪の存在である。誰からも愛されず顧みられもせず、ただ毎日を他人に利用され浅ましくへりくだり、やりたいこともできずやりたくないことをやらされている。そういった境遇に置かれている社会的弱者が仮にドラマの登場人物にいるとしたらそれは悲劇的なキャラクターということになる。そしてその人物が中心に据えられた物語は当然悲劇であり、それが私の人生であるなら言うまでもなく遺憾である。

 そんな私は自他共に悲劇の主人公として努めて振る舞ってきた。それは自身を客観的に捉えて社会的な通念に照らし合わせて自己を分析した結果だろう。私は被害者として生き、そのように振る舞っていたように思える。己の生を端から悲劇と見なし、私は自分自身を必要以上に被害者として設定しすぎていたきらいはある。
 しかし、幼少期まで遡っても私には不遇なことがあまりにも多すぎたように思う。物心ついたときから私の主観的な記憶の中には楽しい思い出や良かったことなど何一つなかった。そんな自分の半生を振り返る度に私は自己憐憫に耽った。私は悲劇の主人公であると同時にそういうストーリーを享受する観客でもあった。そういう立ち位置に立って自分の人生をコンテンツとして楽しんでいたフシもある。
 他人の目や世間や社会的な常識などから照らし合わせて私は常に己を劣等と見なした。それに固執した理由もまた自分の人生を悲劇と定義し、自身を被害を被る哀れな主役としてキャスティングしていた。自分の人生を悲劇として演出するためのありとあらゆる作為や努力が無自覚に為されていたように思える。それも全て自分が悲劇の主人公であり続け、それを客観的に楽しむための苦労や努力であった。
 将来的な見通しも暗く、最早私には一抹の望みを抱く余地も残されてはいないだろう。己の生涯が悲劇的な結末を迎えるさまを私はこれまで何度夢想しただろうか。そんな空想は「こうならないようにしよう」と生産的かつ具体的な行為に結びつくことは殆どなく、我ながら不思議であったが、近頃それが何故だったのか腑に落ちた。私にとって自分の生涯は悲劇であるというよりも「そうでなければならない」ものであり、それは己自身の自分が悲劇の主役を務めるドラマを堪能したい、それを享受して憐憫の情に浸りたいというはっきりとした願望や欲動に起因するものであった。

 しかし、被害者としての悲劇的な人生というのは飽く迄そういう風に己の中でそう見なしている前提ありきの話だ。社会的な見てどうかとか、何かにおける平均と比較してそれを上回っているか、または標準的な条件を満たしているかどうかなどといった事柄はほんとうの意味における客観たり得ない。自身の人生を悲劇と見なし、己を被害者だとするのは単に自分で自分をそう定義しているからにすぎない。

 何故そうするかは前述の通りだ。不可抗力的によって全く望んでいないにもかかわらず不意にこうなってしまったなどとは口が裂けても言えない。自省し恥を知る能力があればそんなことはとてもではないが言えない。私は自分の意志で人生という悲劇を演出し、脚本を書き、主役を演じてきた。そしてそんなコンテンツとしての自分の生涯を観客としても楽しみ、自己憐憫を味わうためにより悲劇的な生き方を内心ではずっと望んできたのが実情である。

 私はずっと不幸に酔い痴れ、それを好み望んできたのだ。私を苦しめてきたのは他ならぬ自分自身であり、そしてそれは自覚のない本心からの大願であった。意識の皮相的な部分では不遇や不運、他人から受ける酷い仕打ちに憤ったり不満を抱いたりしていても、それは単にポーズに過ぎなかった。

 腹の底で私はずっと不幸になりたかった。現状が不幸せであるならそれを礼賛、称揚しつつ、自身が更に苦境に陥ることを願った。逆に自分の生活が上向きになったり、憂いや煩い、災厄などが目下なくなると却って不安になり、心の内奥では打ちひしがれ挫けることを希っていたのだ。これが私の本心であり、私がずっと願ってきたことであり自身のこれまでを振り返れば正しく「望み通り」の人生であったと言える。

 私は己の願望の正体を知るとともに、これと決別したい思いだ。結局渡しを苦しめていたのは私の願いや望みであり、それから距離を置くことでしか私は救われない。私は私の本性を唾棄しなければならない。私が私であることは根本的に私を悲劇の中に閉じ込め、自分が自分であることで私は束縛される。
 不遇や不幸、不運といった事象や悲哀や痛苦といった感情に劇的な意味を付与しているのは単に私の主観に過ぎない。私は私自身を見なす、お前は哀れな被害者だと。私は私自身に告げる、お前の人生は悲劇そのものだと。私はそんな自分を遠目から物見高く鑑賞し、悲惨さや悲壮さが足りない、もっと不幸になるべきだと言い続ける。

 だが、それらのどれでもない別の私が「もう御免被る」と叫ぶ。悲劇を創作し、演出し演じ鑑賞することにホトホトうんざりし飽きた自分の存在を私は無視することができない。不幸せの根源が自身の内側にあり、それはこれまでの私にとっての本願であったということは自覚できた。次の段階に進むべき時が来たと言えるだろう。

 悲劇から喜劇に転じることは安直ではあるがこれもまた私の望むところではない。そもそも何故人間は「人生」を生きなければならないのだろうか。過去現在未来という時系列に則り自分という主体を中心とした経験の集合体としてのコンテンツ、人生という代物は一体なぜそんなに大切でなければならないのだろうか。

 生きることと人生を送ることが完全に同義であるというのは絶対の真理だとは思えない。ある瞬間のみにフォーカスする時、そこに「人生」が入り込む余地はない。しかしその最中にも私は生きている。時系列順に出来事を並べ、主体的な中心人物としての自分が何かを体験したり経験したりする物語は人間にとって絶対不可欠ではないと私は思う。
 むしろ私個人としては、人生という劇にはもう幕を引くときであり、今私はシリアルかつシリアスな一続きの物語から脱すべきだと感じる。自分と人生を同化、同一視してどんな人生を送ってきたかを深刻に捉える必要などありはしない。私は悲劇的であれそうでないものであれ、人生から距離を置きたい。どんな演目であれ、役者としてはもう舞台を降りて少なくともそこからは解放されたい。