壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

なんでもない

 人は自分自身について語る時、否定形でしか言及できないのかもしれない。まるで否定神学のように、己について厳密かつ矛盾のない命題を述べるならば、否定形の文言にならざるをえないのではないだろうか。つまり、私は肉体ではなく、一時の激情でも思考でもなく、組織や集団の一要素ではない……。

 私は◯◯であると言うよりも、◯◯でないと言う方が個人的にはしっくり来る。無論先に挙げたもののアンチテーゼも成り立ちはする。私は肉体としての側面もあるし、内面において惹起される感情や思考は紛れもなく私のものではある。私は独立した個人であることは揺るがないが、その一方で社会的な様々な集まりの一部でしかないという面もまた持っている。

 しかし肯定形で語られる自分への言及は何であれ不十分で不完全である。私は肉体以外の要素もあるし、移ろいやすい感情や思考の一切を自分自身だと見なすのは暴論であり、私は会社や自治体などといった組織の一構成員としての顔以外の側面も当然持っている。それらに相反することはいくらでも言えるのだから、「私は◯◯」であると取り立てて言うことに意味があるとは思えない。

 そして、自分自身の本質や本性というものは実際、「何者でもない」のかもしれない。私は肉体でも感情でも思考でもなく、肩書やステータス、または特定の個々人との関係性によって定義されるのではなく、それらの一切と無関係な何かなのかもしれない。名辞できない何か、指し示すことが不可能な定義不能な何かが自分の本性であり本質であって、言い表すことができる要素や側面は人間の本地とは全くかすりもしない皮相的な属性にすぎないのかもしれない。別の言い方をすればそれは無であり、未知であり神秘である。私たちは己自身を形容することも誇示することも確信することもできないのが実際のところなのかもしれない。

 

 人は何者かになろうとする。神秘主義や精神世界にかぶれでもしなければ、人は世俗的な価値観に従って生きることとなり、それはつまり何者かになろうと試みるのである。それは社会的地位や階級への志向かもしれないし、何かを所有したり誰かと関係を結ぶことによって得られる立場や身分であるかもしれない。仮に好ましい何者かに慣れたなら人は、それであり続けようとしそのために人はありとあらゆる手段を講じるだろう。

 また社会は私たちに何者かになることを勧め、求め、強いる。子供の頃、将来の夢について周囲の大人に尋ねられたことがない人間など存在しないだろう。人生の様々な局面において私たちは数多くの他者に質問される。お前は何になりたいのか、どうしたいのかと。その手の問いに対して、俺は何者にもなれないし、またなりたくないなどとと宣言するのは相当勇気がいるだろうし、仮にそう言った場合、その人は周囲から奇人変人か社会不適合者の烙印を押されるだけだろう。

 社会的な意味で人は生まれながらに何らかの存在として定義づけられる。まず我々はほぼ例外なく産まれたらすぐに親などから自身の出生届を役所に提出され、戸籍に登録されるだけでなく名前をつけられる。戸籍が与えられ名付けられた時点で私たちは社会的な存在となる。それらがどのようなものであれ、それらが公的な意味でのアイデンティティとなりそれは一生涯私たちに付いて回ることになる。

 名前にしろ戸籍にしろ、私たちは自分では選ぶことができない。続いて今度は社会的にどの階級に属するかが自動的に決定する。経済的に下層な階級に組み込まれ生育されることを望む人間は居ないが、不幸な者はそのように育てられるだろう。その次に半ば強制的に決まってしまうのは従事する仕事だろう。このようにして戸籍、名前、階級、職業は生得的に私たちに押し付けられる。これらがお前だと社会や他人、世間から宣告され、私たちは社会的なアイデンティティを強要されることになる。

 こんな外的要因による定義付けをある者は受容し、またある者は反発する。先に挙げた諸要素や諸々の属性が自分にとって好ましく思えるような幸福な人種は当然のごとくそれを享受しそれに基づいた生を謳歌し、その生涯を肯定しながら守り通そうとするだろう。しかし、先天的に不本意なものをあてがわれた者はそれを潔しとはせず、異を唱えるだろう。

 私個人を例に挙げるなら、私は本籍地や与えられた名前がとても嫌だし、生まれつき属している階級やそれによって決定づけられてきた半生を忌まわしく思う。自分を自分たらしめる戸籍や名前、社会的なあらゆる属性の一切が私にとっては好ましくも望ましくもなく、そのためそれらが私自身をズバリ現しているとは絶対に認めたくはないという思いがある。

 

 私は少なからぬ歳月を生きた結論としてやはり、自分は何者でもないと主張したい。人間全般に敷衍して言えるかどうかは定かではないが、少なくとも私は好ましくない自分を唾棄あるいは放擲したり、望み通りの自分に近づいたりするのではなく、本来的な意味での己の本地を追求していきたいという思いがある。自分をどのようにして定義づけるとしても、それは根本的な解決にはならない。

 己が何者であるかというのは表層的なことでしかない。たとえ私が皇帝であろうが乞食だろうか、それは自分そのものを指し示さない。冒頭で述べた通り、私は◯◯であるという命題は穴だらけで、いくらでも否定でき覆せる。それは一時的に一つの側面から見た表象に過ぎない。

 戸籍謄本や住民票を取り寄せて紙に載っている文字の羅列を指し、これが自分そのものだと胸を張って言う人間がいるだろうか。大げさ過ぎる例えかもしれないが、何かを引っさげたり指して「これこそ私」だと主張するのは概ねそういう所業であると言える。

 何者でもないということは自由そのものだと言える。人が自由な状態でいられるのは何かになろうとせず、何かであり続けようとせず、何かと自己を同一化させていない間だけだ。本当の意味で言うところの自由な人間はなんでもない、希少でも特別でもない取るに足らない存在だ。

 何かを目指し、何処かに達しようとする努力や作為はそれ自体が人間を不自由に陥れる。何かを定義づける試みはそれを限定付ける行為であり、それを己に施すということは自身を有限で局所的な、矮小な存在にしてしまう。私は◯◯だという命題は牢獄そのもので、その内容がどうであれそれは人間にとってのしがらみとなる。

 何かであろうとしたり、何かで居続けようとする姿勢はそのまま人間を心身ともに束縛する。自由を志向する人種はこれから逃れ、距離を置くことになる。それができない若しくはしたくないというのなら、その人は自由になることを本心では望んでいないのだ。

 なんでもない、特別でない人間だけが自由だ。そんなものは御免被るという人間は社会においては多数派だろうし、その思いは私にも理解はできる。しかし本質的な自由と世俗的な意味で言うところのそれとは全く異なるということだけは主張したい。

 個性的であることや特異であることを誇示するのは自由を希求する態度とは正反対だ。そして余人の大半は不自由を好み望んでいると言えるし、社会的に望ましい人物とされるのは自由人ではないのだろう。

 なんでもない状態が自分の本性であり、それは自由と不可分だ。なにものにも依らない境地に至る時、肉体からも精神からも私は解放されるだろう。そしてそれは極めて反社会的なことだとも言える。