書き捨て山

雑記、雑感その他

喪失

 仔細は省くが、今日ブログで使用するはずだった文章の草稿が故あって無駄になってしまった。タイトルを決め全体的な構造を考え、各行ごとの冒頭に据える一文を綴るだけでも私にとっては大仕事であり、それを完遂するだけでも少なからぬ時間が掛かる。それが全て無に帰したということは時間的な損失だけでも決して無視できるものではないと言えるだろう。

 それを考えたり書いたりするのに要した時間や労力は全くの無駄となった。人生における時間はどんな局面においても有限であり、通常の一般的な感覚においては時間の無駄というのは忌避されて当然の代物だ。言うまでもなく私たちは有限なある期間の中でしか生きられず、健康でいられず、正気を保ちつづけることができない存在である。だからこそ時間というものは貴重でかけがえのないものだと見なされているし、私自身も全く同意する。

 時間や労力、金銭の喪失は人間を大いに苦しめるのは周知の通りだ。割いた時間や支払った代金に見合った何かが得られないとしたら私たちは大抵の場合ひどく落ち込むはずであり、それは世間的には正常な感覚だと言える。形而上形而下の別なく、私たちの心の奥深くには何かを所有したいあるいは所有しているという感覚と、それらが得られないかもしれない若しくは失いかねないという思いがある。

 人間にとって精神的にしろ肉体的にしろ失うことは苦痛や恐怖の源だ。自分の所有となっているはずの何か、自身の一部であるはずのものがふとした拍子から我々の手からこぼれ落ち、どこかに霧消してしまうとしたら、私たちは何も感じずにはいられないだろう。不感症にでも陥らない限り、それは私たちにとって苦痛の元となるのは当然勝つ自明なことだ。

 今日のことに限らず、私は数限りない数多のものを失ってきた。まずそれは若さであり、未来への夢や希望である。そして絶ってはならない人間関係や不意に紛失した財産や幾つもの私物、将来への切符となるはずだった数多の機会などなど数え上げればキリがない。

 また、喪失への後悔と懸念が私をずっと責め苛んできたように思う。ほんの些細なことから得難く掛け替えのないものをなくし、また目下当たり前のように手元にある事物や人との繋がりについて一体どんな弾みでそれが失うのではないかという思いが、たとえ杞憂だったとしてもどんな瞬間においても延々私を苦しめ続ける。

 

 だが、喪失を被る時、人はなぜ苦しむのか。私だけではなく、万人にとって失うこととその可能性は頭痛や悩みのタネとなるだろう。自分の体の一部でもなく、自身の神経と直接結びついているわけでもないのに人はなぜ失う度に苦しみを感じるのだろうか。それについて私は洞察や分析も怠ってきた感があり、それへの無理解がよりいっそう私を苦悩させてきたようにも思える。

 肉体的な損失は怪我や病気、そして死などが当てはまる。若さや健康、五体満足な体や正常に働く臓器などは私たちにとって基本的に失いたくないものであり、それらの存在はっきりと目に見えて認識したり自覚したりできるものだ。しかしそれらは老化や身体を負傷することで容易に失われるものでもある。四肢が欠損したり内蔵が機能不全に陥れば私たちは嫌でも喪失感を味わうことになる。それは言うまでもなく耐え難いものだ。

 対して、精神的な喪失は既に持っている何かを失うことで引き起こされる感情だ。所有物は本来先に挙げた肉体とは異なり私たちと直結するものではないが、それでも「我がもの」を失ったり手放すときに通常人は悲しみや苦しみを被るだろう。それは概念的に我が身の一部のように感じられるから、それが手元から無くなるとすれば人は、擬似的に手足を引きちぎられるような思いを味わうだろう。

 そんな多種多様、種種雑多な諸々の苦しみに悩まされずに済む道があるなら、私ならぜひそうしたいところだ。肉体が衰え滅び、身ぐるみを剥がされ全てを喪失してもそれを苦にも思わず、それについての可能性に思いを馳せても呻吟することのない境地に至ることができたら、もう私は憂い煩うことは今後一切なくなるはずだ。

 そもそも、「これは私のもの」という前提に基づいて生きてはじめて人は喪失することが可能となる。そんな考えや思いが自明で疑いようがないという体で人は自他や世界全体を知覚し、判断を下している。そういった価値観や世界観に支えられ満を持して私たちは何かを失うという経験ができる。言い方を変えるなら、そういう目に遭うことが可能となる。

 しかし、私たちは何かを失えるのだろうか? くだんの前提が盤石で疑う余地が全くないなどと一体どんな根拠や確証があって言えるというのだろうか。何かを指してこれは私の物だと宣言するのは単に当人が身勝手にそう認定しているに過ぎない。私たちは自身の肉体ですら代謝や生理現象を自在に制御できない。なぜ私たちはそんなままならない代物を我がものだなどと恥ずかしげもなく宣言できるのか。改めて考えてみれば極めて滑稽なことだ。ましてや体以外の事物や事象など言うに及ばずであろう。

 何かを自分の所有物だとか、己に帰属するものだと考えるのは間違いではないか。それは浅薄で狭量な了見でしかない。獲得や所有という概念はそれ自体が幻想にすぎないのかもしれない。私たちは本質的には何一つ手中に収めることはできず、一瞬たりとも何一つ「我が物」にすることは能わないのではないだろうか。

 

 そして、何も持たない者は何かを失うことはない。持たざる者とは私たちの本来の姿である。何かを得る、得うる、得ているといった誤謬から解かれたとき、人は何かをなくす可能性が一切なくなる。

 完全に徒手空拳の者が何かを喪失することはそもそも不可能だ。端から失うものがない人間は手放すことも捨てることもできない。そしてその人は喪失への懸念や不安とは全く無縁の存在となる。

 何かを獲得しようとする試みは全て不毛である。なぜならそれは単なる錯覚にすぎない。私たちは空手で産まれ空手のまま死んでいく。それは一人の例外もなく、どう足掻いても覆ることがない。仮に何かを手に入れたように思えてもそれは一時の思い過ごしにすぎない。そのことを遅かれ早かれいずれ必ず私たちは気付かされることになる。

 また、何かを失うまいとすることも徒労である。私たちは決して何かを失わない。先に述べたように、そもそも私たちは決して得ることはないのだから。得ることがないものは失うこともなく、それについて心配することは取り越し苦労にすぎない。

 肉体も精神も厳密には私の所有ではない。そして精力や時間も私に帰属しない。だがそれは厳然と存在し、私はそれらを有効に活用することはできる。人間にできるのは手に入れることではなく使うことであり、それは仮初めの獲得や所有に固執するよりも遥かに多くのものを我々自身にもたらすだろう。

 何かを活用する上で所有することは必須ではない。自身に有益なものの恩恵に浴するとき、それが自分の物である必要などない。何度も述べたように所有しているという感覚は錯覚や幻想にすぎないのだから、使うときにそれが自分の物かどうかについて拘泥する意味はない。

 喪失など問題ではなく、恐るるに足りない勘違いでしかない。それに気づければ私たちは無用な心配や恐怖からは縁を切ることができるようになるだろう。何事も自分の物だと思わないことだ。そういった姿勢を保つ習慣を身に付ける必要があると感じている。

 私は空手で産まれ、生き、そして死ぬ。そう思えば人生というのは何と気楽な旅路だろうか。何も得られないということは抱え込んだり背負い込んだりするものもないということだ。私たちはただ路端にあるものを使うだけで十分だ。そんな憂いなき生に喪失という概念自体が不似合いであると言えるだろう。