他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

肉の人、霊の人、そして無

 人間の本質とはなんだろうか。我々は様々な瑣末事に翻弄され忙殺されながら日々を汲々と送っているせいで、自分を自分たらしめる要素が何かなどといった思いを馳せる余裕はあまりない。自分自身を守り維持するために暮らしを営んでいるのだから、それが何なのかを知ることは重要であるはずなのに、何故か我々はそれを怠り、蔑ろにしがちである。

 各人をそれぞれ個たらしめる核心となるものは千差万別だろう。何かが万人にとって画一的に自己の本質であるとは言えないだろう。何を自身の核とするかは人によりけりであり、どれを若しくはどんな状態をもって自分自身だと定義するかに貴賎や優劣などといったものはないだろう。

 しかしそれは大抵、己の心身のどちらに属するものである場合が多いだろう。別の観点で述べるならば物質的なものか精神的なものかのどちらかであるとも言えるだろう。それが何であるかが個々人の個性であり、独自性であると言える。

 心と体のどちらに重きを置くかによって人は肉体的な存在か霊的な存在かに分類される。しかし、それらのどちらかが優れているとか勝っているという話ではなく、ただ単に別の人種だと言うだけである。世の中の大部分の人間はこれらの2つのタイプのどちらかに属し、それぞれ異なった価値観や世界観を前提として生きている。

 

 肉体およびそれに付随するものに重きを置くのは肉の人だ。自身の頑健な肉体そのものやそれの働きをもって自己の本質とする人は多いだろう。母親の腹から生まれた日をもってその人は自身の人生の始まりと定め、心臓や脳が昨日を失った瞬間に自身の人生が終了するとこの手の人間は確信するだろう。

 体こそが自分自身だと確信を持って言える人は幸いである。肉体は極めて明々白々とこの世に存在し、生きている人間の耳目でありありと認識することができる。鏡に写っている自己の像を指して自分自身だと認識するのは正常かつ当然だ。肉体が己そのものであり、それだけが全てであると考えることは安直かつ短絡的ではあるが、同時に妥当な認識であると言える。

 精神およびそれに付随するものに重きをおくのは霊の人だ。自分の肉体だけでは満足できず、心や魂といった形而上の領域に本質的な自己があると考える人がこれに当たる。この手の人種は肉体が滅んでも自身は雲散霧消しないと考える。不滅の霊魂がその人にとっての本地であり、それはあの世に行くにしても生まれ変わるにしてもその人であり続けるのだ。

 心こそが己の本地だと胸を張って言える人も別の意味で幸いだ。自己同一性というものが肉体の有無に依存せずに厳然と保たれ続けると核心を抱けるなら、その人は死を恐れる必要がない。永遠に自身が不滅であると信じる人は迷いなく生き、そして死ぬことができるだろう。肉体の老化や死亡といった将来的に避けがたい問題に自らの内面的な解決を図る上で、霊即自分とするのは極めて有効であると思われる。

 しかし他方では、心身ともに自分自身だと思えない人種もいる。肉体は自分の思い通りにならず、精神も完全に意のままに制御できないという事実から、それらの両方とも自分自身だと見なすことができない人間である。私はまさにそういうタイプで、肉体も精神も自分だとは認めたくないという思いがある。私の本質、本性、本地といったものはそれらのどちらでもなく、全く別の何かであるような気がするというか、そうであって欲しいという願望のようなものが子供の頃から内心ではずっとあったように思う。

 こういった類いの人間は寄る辺のない不幸な存在だ。目に見える肉体や想像が届く概念としての霊魂が自分自身の本質だと見なすことができない

 この不幸な人種が救われる道はどこにあるのだろうか。この手の人間が抱えているのは本質的かつ究極的な自己への不安である。形而上においても形而下においても、自分だと思えるものが全く存在せず、何に重きを置けばいいか覚束ない。そんな状態で生きていかなければならないのは辛く苦しいものである。

 私は肉体も精神も自分自身だと見なせず、それが私を悩ませてきた。己にとって大切にしなければならないものが何か分からない。肉も霊も己の本質や本性だとするにはなにかが足りないのではないかという思いが払拭できない。自己のアイデンティティの問題を解決することができず、私はそれについて頭を悩ませてきた。私は肉の人でも霊の人でもない。それらのどちらにも帰属せず、どうすればいいのか途方にくれてこれまでずっと生きてきた。

 

 しかしその煩悶は、どこかに何らかの形で自分があるはずだという思いから端を発するものだ。それが物質的な形であれ観念的な形であれ、確固たる自己が何処かにあるはずであるという前提を根拠にした思想だ。私達は漠然とそれに対して疑う余地がないと思い込んでいるが果たしてそれは妥当だろうか。

 真の自己という代物が肉体にも霊にも依らない何かだとしたら? いや、それどころか真我というものがどんな形でもどんなところにも実在しないとしたら? そうだとしたならば、人間にとって心身に関わる諸々の事柄は本質的には問題ですらないと言っていいのではないか?

 人間の本地・本性が実のところ無だとしたら、心も体も本当の意味での私ではないということになり、本質的な次元で見たり考えたりしたときに何の問題も存在しなくなる。

 無とは「なにもない」ということではない。無とは定義や言明が不可能なものや状態を指す。人間の本質とは実際は人知を超えた完全なる不可知・未知そのものではないだろうか。我々は己自身の本性を決して知ることはない、少なくとも生きている間には。

 余人がどうであるかは置いておくとしても、私は己の本性が「無」であると断言してしまいたい。私は心身のどちらにも依らない存在であると、本質的には。世俗や日常を離れた究極的かつ本質的な意味における自分自身とは他ならぬ無そのものだ。だから私は滅ぶことも損なわれることも決してありえない。

 無から何かを取り除くとはできない。無から何かを奪い取ることはできない。自分自身が無であると確信したとき、人は完全無欠の最強な存在となる。それは仏教的な用語で言い表すならば悟りや成仏といった言葉が当てはまるかもしれない。

 無論、日常的な次元においては私は肉の人でありまた霊の人でもある。しかしそれは本質ではない。生きる上で人は世俗的な感覚を失ってはならない。しかし、人は本質にも目を向けるべきであり、己が本来は何者であるかを思い出し気付かなければならないと私は考える。

 生活とスピリチュアルのバランスを取る必要はあるが、私は自身の本地が無だと確信する。私は肉の人であり霊の人でもあり、究極本質には無でもある。他人がどうであれ少なくとも私は自分自身を何とするかという月並みかつシリアスで遠大な問に対しては一つの回答を持つに至った。私とは無であると。

 心身はともに仮初めの自分にすぎず、私と呼べるものは本質的かつ究極的には全くの無であると断言できる。無は何かに限定されず、始まりも終わりもない。決して生まれることも死ぬこともない本性を自覚することができれば、人間は死ぬことや失うことを恐れる必要など本当はないということを知るだろう。

 無という言葉はNothingではなくEverythingである。無限や無尽、無辺といったものを指し示すことはできないからそれを便宜上無と名付けるしかないが、それは本来ならどんな言葉でも言い表すことができない「何か」であるのかもしれない。

 ともあれ、自分自身というのは絶対的な未知であり永遠のフロンティアであるというのは私にとっては福音にほかならない。肉体や人格、または霊魂が即己自身だと見なす余人にはもしかしたら私の考えはいたんかもしれないが、個人が己をどう見なし捉えるかは自由の範疇だからこれについては誰の理解や許可も不要だろう。