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書き捨て山

雑記、雑感その他

問題即自我

 問題とはそれ自体が人間にとってのアイデンティティだ。自分が自分であることと己自身がどのような存在であるかということは密接に関わり合っていると言っても過言ではない。人間にとって格闘している問題の内容が己が何者かを表す。このような視点で考えたとき、人は問題を解決したり解消したりすることなど内心全く望んでいないのではないか、という気さえしてくる。

 私は今こんな問題を抱えているのだと宣うとき、その時点でその人は自身について語っている。あるものを問題視し、それについて悩んでいると誰かに吐露するとき、それは当人が意識していないが広義の自分語りとなる。その問題それ自体は己について語る端緒に過ぎず、その人はそれに対面して何らかの反応や行動を起こしている自分自身を誇示している。

 このようにして人間は、問題によって自分自身を定義する。頭痛の種やや闇のタネを通して人は自分が何者かを知る。そしてそれがその個人にとってのアイデンティティを形成する。悩み事こそが概念上の自己を自己たらしめる要素となり、それによって人間は自己を意味づけする。

 目下直面している問題がその人の形而上の血肉となるのである。我々にとって問題とは取り除くべきもの、克服し解消するなり解決するなりすべき何かだと思われがちだが、人間の意識の深いところでは実はそうではないのである。我々の自我は問題それ自体の化身であって、それが解決あるいは解消されるということは私たちの自我が霧消することを意味しているのである。

 よって、抱える問題を増やすことは人間にとって自己の拡張となる。我々は問題を克服することに依ってではなく、問題それ自体によって自己を確立する。我が強い人間は多くの問題がある人物であり、逆に生きる上で問題がない者は無我、無私の状態に近いと言える。

 私たちは人生の中に問題を見出す度に自我を強くする。何かに悩み、苦しみ、怒り、憎み、倦み厭うことで私たちは自分が自分であることを確認している。それによって人間が得られるのは単に我の強さだけなのだが、これがどういうわけか我々にとっては強烈な快感となるのは不可思議なことである。私たちは自己や自我を強く意識することを望んでいる。そしてそのためには多くの問題を抱える必要がある。人間にとって多くの場合、何らかの問題によって苦悶し葛藤するほどアイデンティティを強めることになり、それが無意識下における我々の強烈な願望となっている。

 

 私は数々の問題を抱えてきた。私にとって生まれや育ちが悪いことがまず第一の問題であったし、自身の肉体的な特徴の一つ一つが常に私を悩ませてきた。履歴書に書かなればならない経歴なども問題だらけであるし、目下生活上の金銭面で抱えている問題は当然感化できるものではない。更に言えば私は将来というもの自体がたいへん大きな問題であると考えているので、私にとって自分自身というよりも生涯それ自体が巨大な大問題そのものであると言っても過言ではない。

 懊悩や煩悶に耽ることが人間として上等な振る舞いなのだと私は信じてきた感がある。葛藤を抱え込んだり苦しんだりすることで自分が高踏な人間に慣れると愚かにも考えていた。まるで私小説の主人公よろしく自意識過剰で自惚れが過ぎる人格が思春期以降形成され、私はそれによって根暗で陰気で悩み深い人間となっていった。

 問題に悩まされることこそが私の人生であった。私の生涯において、問題に直面していない瞬間など全く無かった。生きること即悩むことであり、また苦しむことであった。映画の主人公が葛藤を抱えながら問題に格闘するかのように、私もまた生きる上で対峙するありとあらゆる煩雑な事柄を問題視し、それに取り組んでいる自らに憐憫の情を抱き、それによって自分が何者かを知り、定義し設定てきた。

 私にとって人生の全ては悩みの種であった。何らかの問題について悩んだり苦しんだりすることで自己を確立するという手法で生きてきたのだから当然である。私は悩みが存しなければ己が存在し得ないという愚劣な考えに基づいて人生を棒に振った。私がそのことに気付いたのは、馬齢を重ね色々と手遅れになった後のことであった。

 私は問題に対処することが人生だと思って生きてきた。果敢にそれへ立ち向かい、それと格闘し、勝利することが人間として好ましい振る舞いだと本気で考えていたフシがある。今にして思えば、理不尽で不条理な諸問題に直面し、煩悶し葛藤に苛まれながらも生きている自分というヒロイックな自意識がそうさせたのかもしれない。

 だが、私はそういう姿勢にいつしか疲れ果てていた。生涯が問題で満ち満ちていて、寝ても覚めても常にそれらに頭を悩ませ、命ある限りそれと延々格闘し続けなければならないという姿勢を取り続けることに、私はうんざりし飽きてしまったのだ。

 また私はある時から、仮に一つの問題が解決しても自身が置かれている状況が好転していないことに気付いた。ある問題が解消されても全く異なる別の問題が噴出し、それについて今度は頭を抱えることになるのは世の習いだろう。私はそれにほとほと嫌気が差して、もういい加減終わりにしたいと望むようになっていった。

 

 自分が存在し、それに対して何らか問題があるという世界観を私は自明なものとして認識していた。まず、私が在り自身を悩ませ、苦しめ、妨害する問題が存在し、それに何らかのアクションを起こすことが人生であり生きることの本質であり真理だと思いこんで生きてきた。

 しかし、私があって問題があるという構造に私はある時ふと疑問を感じた。一体どこの誰がそれが真実だと保証したというのか。それは単に私個人がそう思って生きたというだけであって、そういう捉え方が真理でありこの世の実相であるなどという根拠は何一つない。

 私は思った、何かが私を悩ませるののではなく、その何かこそが己の本質となっているのではないか、と。私が悩んでいるのではない。私が苦しんでいるのではない。私が苦しんでいるのではない。その悩みや苦しみこそが私を私足らしめている要素であり、私が生じる出どころであり己の正体であった。

 問題を抱えれば抱えるほど、自我は強固かつ堅牢となる。自我の強化のために人は望んで問題があると思いたがる。自分が自分で在り続けるのは人間にとって何故か快感となる。それを追求するために私たちは常に諸事を問題にしたがり、問題視できるなにかを血眼になって探し回っているのが実際のところではないだろうか。

 逆に問題がない時、そこには私はない。確固たる私、一個の人間として確立された自我というものは対峙して取り組むべき問題があってはじめて存在する。問題なくして己を打ち立てることは不可能であり、問題を抱えたくないと真に望むなら、人間は己が己で在り続けたいという欲を手放し、その妄執から離れなければならないだろう。

 我在りという思いと問題があるという思いは不可分であった。問題即私という構図が見えており、なおかつそれでも問題に煩わされることを望まないならば、私は私であることをやめる必要がある。と言うよりも、ただそれをするだけで私は煩雑な問題から解放されると考えるべきだろうか。

 本当の意味で問題から開放される時、私の自我は消滅する。自分自身に固執したり執着したりすることが無くなれば、問題持つ必要性もなくなりそれこそが本当の意味でのソリューションとなる。自分が自分であるという状態に拘ることも囚われることが無くなれば問題は生じず、憂いも煩いも起こり得ずそもそも存在すらし得ない。