壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

見境

 人は無意識のうちに物事を分別して捉える。生まれついた瞬間の嬰児にとって、この世界は一体どんな様相を呈しているのだろうか。分別や分類などといった浅知恵など一切持たない無垢な者にとって、世界は全く単純明快であり仏語で言うところの無分別の境地がそのまま現れているのだろうか。しかし、我々にとってこの世や世界は到底そういった代物ではないことは論をまたないだろう。
 まず人は己とそれ以外を分け隔てる。確固たる掛け替えのない存在としての自分自身というものが意識がある限り常に我々にとっての中心となる。そして己の身辺を取り囲むあらゆる事物が存在し、私たちの近くは自己とそれ以外を明確に分類して分け隔てる。まず私がある、という前提に基いて私たちは生活を営んでいることもまた疑いを挟む余地はないだろう。
 次に人は自身に属するものや関するものとそれ以外を隔てる。自分とそれ以外という単純な構図飲みを想定するだけでは認識不足だ。自分の身内や友人、利害関係を基準とした敵味方の峻別、同国人と外国人、人間と非人間の生物などといったように私たちは己とそれと関わりがあるものとそうでないものを分け隔てて認識し、どのように対応すればよいかを判断できるようになる。
 人の知的な活動は形而上形而下の別なく「分ける」ことが肝となる。触れられるものであれ、概念上だけの存在であれ、私たちは何かを知るには兎に角分類することから始める。私たちは己と他者が異なる存在であることを踏まえ、さらにそれがどのように違っているかなどといった観点からそれを理解しようとする。
 さらに人は自己の認識化において分別したものに名前を付ける。「己でないもの」に個別の名前を与えることで私たちはそれを明確に認識するに至る。分類して命名するという一連の過程こそが人間の知的活動の本質であり、私たちは全く意識せずにこれを絶え間なく、すべての対象に行っている。

 

 しかし、本来この世界には区別や分類、分け目や境界など存在しない。冒頭に述べたように、嬰児にはそういった視点は備わっていないだろう。そういう無分別の境地こそがこの世界の実相であり、あれ・これ・それ、自分とそうでないもの、などといった区別はこの世の本来のあり様とはかけ離れた認識である。
 境界や分別といったものは人間の頭の中にしかない。私たちの脳内の活動としてあるものと別のものが区分けされて知覚されているに過ぎず、私たちはそれぞれの意識や至高の中で形作られた仮想の世界観に基いてこの世界をバーチャルに認識しているだけであるといっても全く過言ではないだろう。
 私たちにとって自明であるそれは、結局のところ幻想である。頭蓋の内側で構築された価値観や世界観というフィルターを通した世界は言うなればまがい物でしかない。私たちが普段現実だと思っているこの世界は意味づけされあらゆる区別や分類がなされているがそれは我々人間の目や脳にとってそう見える、そう感じられるというだけでしかない。
 しかし、その幻想は私たちにとって必須である。私たちの生存、人生というものはほかならぬこの幻想を土台にしている。いわゆる無分別という状態で四六時中生活することは能わないだろう。私たちはこの世界を適切に知覚し認識することではじめて生きる上で適切な思考や判断が可能となる。
 事物や事象、自己と他者の間に正しく線引きをすることが理性であり正気である。私たちがマトモであり続けることができるのは、先に述べた「正しい幻想」を抱き続けているからだ。バーチャルな認識、イマジナリーな境界線、生存上の便宜としての識別などが駆けたなら、私たちは生活能力を失い生きることすらままならないだろう。
 境界や区別がない状態は有体に言えば狂気である。精神病患者や痴呆老人は事物を的確に分類することができない。だから彼らは常人が暮らす世界の一員ではいられず、遅かれ早かれ社会から隔離されてしまう。狂人は事物や事象の見境を付けられないから日常生活に支障をきたす。私たちと彼らの差異は結局のところこの一点しかない。
 言うまでもなく、狂気の中で人は生きるべきではない。精神世界や神秘主義の世界ではことさら称揚され賛美される無分別やワンネスなどといった思想は、あえて否定的な言い方をするならそれは単に狂った人間の考えにすぎない。私たちは世俗や日常の領域においては正気を保つことが絶対に不可欠であり、そこから離れて生きようすれば世捨て人になるか病院に収容されるしかなくなる。
 しかし、それは単に狂気が実利や実益に適わないというだけの話だ。人間が受容する世界は妄想や幻想にすぎないが、そのマトリックスな世界観に首まで浸かって生きることは私たちにとっては無論有益である。私たちは分け隔て名付けることでこの世界を知り、それによって自身にとって有利になる判断を下し、行動できる。それによって得られる恩恵は計り知れない。我々が頭のなかで解釈する世界がこの世の真実や実相とはかけ離れていたとしても、プラクティカルな観点では全く何の問題もない。

 

 そういう訳で、私たちが正気を保つべきなのはその方が自身にとって生きる上で多く得をするからに他ならない。正気は生産性と不可分である。狂人が社会から隔離されるのは彼らが何も生み出さず、自活する術を持たないからに過ぎない。多くの利益を生み出しかつ自立する能力がある狂人は、場合によっては才人扱いされて世間で持て囃されるかもしれない。
 逆に言えば、実利的な問題と無関係な場合において私たちは正気を保つ必要や義務などない。人生のあらゆる局面において利害が絡むなどということはない。そのため私たちは生まれてから死ぬまでの間、徹頭徹尾マトモでなければならないわけではない。私たちが正気を失ってはならないのは実益を確保しなければならないからであり、分別ある振る舞いや思考を維持するのは偏にその一事のためであることをゆめゆめ忘れてはならない。
 むしろ分別が足かせとなる場合もあり得る。区別や分類が全て万人にとって有益で実利をもたらすとは限らない。むしろ全く逆に作用する誤謬などは積極的に正し、ともすれば唾棄すべき場合すらある。私たちの分析や解釈が丸ごと間違いであることは大いにあるしまた、余計な分別など取り払ったほうが却って得をする局面も十二分にありえるということも留意しておくべきだろう。
 更に言えば、打算や実利を度外視できる局面において、私たちは無分別の境地に足を踏み入れても問題ないはずだ。プラクティカルな論理から離れた視点でこの世界を戯れに捉えることも時には良いのかもしれない。人間にとっての損得や個々人における利害を超越したところに「本当」のことがあるのだと私は考えている。それが一体何の役に立つのかと問われれば答えに窮するところではあるが。
 境界や分別を設定せずこの世を認識するとき、人は初めてこの世をありのまま感得することができる。それは無意味かつ無益な狂気の世界だ。そこには価値判断やカテゴリーの分類はおろか、自分と他人の区別すらない。過去現在未来といった時系列に則ったパラレルな出来事の並びすらなく、あらゆる一切が混淆した混沌とした状態だ。ありのままとは文明や理知による文脈や前提が存しない完全なる不条理の世界だ。
 ともあれこの世の実相はボーダーレスかつシームレスである。私たちは普段、日常的に慣れ親しんだ世界を現実と呼ぶが、それは便宜的な認識や解釈にすぎず、それは利得のための方便のために重んじられているだけのものだと自覚するべきだ。私たちの人生は本質的な意味において、どんな捉え方でどんな生き方をしても酔生夢死の域を出ることはない。しかしそんな空想や妄念によって支えられた世界観こそが私たちに多大で有益な恵沢を与えるということも無視すべきではないだろう。