壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

鏡張りの独房

 他者をはじめとしたあらゆる事物は自己の心を映し出す鏡だ。人間に対しても動物に対しても、また物体や現象、形而上の概念的な存在ですら一切は私たちのある面や部分を表象する象徴のような役割を果たしているに過ぎない。私たちは自分以外を道具やきっかけとして、己自身をそれの中に見出している。森羅万象は己を婉曲的に知るための手段にすぎないと言って良い。

 自分の精神のある部分を人間は外界の何かに投影する。他人の不徳や罪悪を糾弾しているとき、人はその対象に自分が抱いている後ろめたい何かを見ている。他者に対して軽蔑や嘲笑の念をぶつけるとき、人は少なからず自身の内面にもそれとの共通項を無意識の内に発見し、それを外部の存在に転嫁することで己を防衛している側面もあるかもしれない。なんにせよ、他人というものは自己を映し出す鏡であり、他人を指差すときにどんな感情や意図を持っているにせよ、それは必ず己自身にも少なからず該当する場合がほとんどである。

 厳密な意味で私たちは決して他人を知ることはない。他人に対して己にまつわる何かを見出すが故に人はその人物に何らかの言及や評定を下すことができるのであり、それらは自己の認識に依存している。よって他者について語るという行為は自分がどのように他者や事物について考え感じているか、ひいてはどんな願望や情動を内に秘めているかを吐露する行為となる。たとえどれだけだけそうならないよう気を配ったとしても。

 私たちが他人に対して何らかの評価を下すとき、それは迂遠な自分語りにしかならない。とある人物について「自分が」どう思うのか、ある出来事について「自分が」どう感じたのか、というように。人間が何にどう言い及んだとしてもその発言のテーマは「自分自身について」にしかならない。社会正義や人類全般に敷衍して言える真理めいた分析や批評をしたつもりになっていても、それは単に自分自身を基準にした私見、つまり自分自身の内面の暴露の域を決して出ることはない。

 他人を批判するとき、それがどんな内容であっても、自己への言及でしかない。どんな極悪人の非道な振る舞いを糾弾していても、それは自身の倫理、自身の思想を遠回しに表明しているだけだ。淫行や詐欺、強盗や殺人に至るまで、それがなぜ責められるべきなのかを大上段から語るとき、人は己が抱いている価値観や世界観、思考回路や精神構造を精緻に露呈することになる。

 人間は終生どんな瞬間においても自身と向き合い続ける。何かを褒めそやしても、蔑んでも、虐げても哀れんでもそれは遠回しに自分自身のなんらかの要素と対峙して何かを言ったりやったりしているだけだ。人間の言動は詰まるところ徹頭徹尾自己満足の域を出ず、公や天下国家のための行動と見せかけてそれは深いところで単に私的な動機に拠るものでしかない。

 

 私はこれまで生きてきて、数え切れないほどの悪人と邂逅した。陰険で悪意ある、強欲で倒錯した悪漢との交わりは、私に怨憎会苦をもたらし大いに私を痛めつけた。私は幼少期から今日に至るまで、徹底的に自身を被害者として位置づけ、これらの悪党との対峙を悲劇的な事件と捉え、彼らから被った被害や損失に絶えず惜しみ嘆いてきた。悪人に苛まれ、辛酸を嘗め痛苦に呻吟する自己に憐憫の情を抱きながら生きてきたと言っても過言ではない。

 私はどちらかと言えば性悪説を信じてきた。人間という存在は根本的に悪であり、自他共に本性は悪そのものであると考えてきた。事実これまで生きて巡り合った善人の一人悪人の数を比べれば、後者の方が圧倒的に多かった。また、自分自身の内面に宿っている「良くない要素」を私は見逃すことができなかった。私は他者を害したいと思った経験は数知れず、我欲のために自分以外を犠牲にすることを厭わない面を持っている。だからそういった気質が遍く全ての人間も具有していると考えた。

 また、私にとって社会は陰険で殺伐とした厳しい世界だった。誰も彼も腹に一物あり、強欲かつ猜疑心にまみれ、身勝手で傲慢な人間が寄り集まってできているのが世の中の実相だと私はかなり幼い時期から考えていた。巡り合う全ての人間が私には信じる値せず、また顧みる価値もない存在だと信じていた。

 しかしそれは自身の疑い深さや恨み深さ、欲深さに根ざした偏見に過ぎなかった。他者や世界に対するそのような認識は、自分自身の内面が外界に投影されていただけだ。他人を推し量り値踏み、決めつけるだけで結局のところ私はこの世や自分以外の人間について何一つ分からず、また知ろうともしなかった。ただ自分の頭の中の考えをただなぞっていただけだった。

 私は己の中に救う幻影を他人の中に見出していただけだった。他者が醜く見えるのは他でもない自分が醜いからそう見えるだけだ。他者が強欲で身勝手に見えるのは他ならぬ自分自身の本性をその人物を引き合いに見出しているに過ぎない。

 私は未だ他者を知らず、これからも決して知ることはない。仮に今日を持って心機一転、心を入れ替えて世界や他者への認識を改め刷新したところで、その新しい見方や捉え方もまた、大将それ自体とは似ても似つかない独りよがりなものにしかならない。それが肯定的であれ否定的なものであれ、この一点は決して覆ることはない。

 人間の認識は例えるなら鏡張りの独房だ。自然も社会も、人間もそれ以外の生物も、物体もイメージも全て自分自身を投影する「何か」以外にはなりえない。他人を分析しているようで己自身を省みているだけであり、森羅万象の一切合切は映し出された己の虚像でしかない。

 人は生涯を通して、変形した歪な自画像と向き合うだけだ。どんな極悪人や聖人君子、呪わしい災厄や欣喜雀躍すべき吉事、恐るべき凶兆や胸躍る福音も全てが自分自身の投影にすぎない。私の中の何かが象徴的または比喩的に顕れているだけである。それが人としてこの世を知覚し解釈する限り限界として私の厳然に常に立ち塞がる。

 

 外界の実相について、人間が本当の意味で知悉することはできない。事物のありのままについて、人は決して触れることは能わず、その片鱗さえもうかがい知ることは不可能だ。平たい表現をするならば、人間にできるのは理解ではなく偏見に基づいた決めつけや手前勝手な思い込み、浅薄で愚劣な錯覚の類いだけだと言える。

 人間の視点における人間の知の限界は極めて浅い。私たちは生涯を通して、真の意味で何を知り得るだろうか。偏見や誤謬の一切を排し、本当の意味で何かを一つでも分かることができるだろうか。どれほどの叡智や見識、分別を持ってしてもそれが可能になるとは私は全く思わない。

 しかし、人間は人知を超えた神の視点を持つことができる。私たちは全にして一なるものであり、無分別で境目が全く無い。神の視点で一切を捉えるなら、あれやこれ、ここやそこなどと行った区別もなく、悪人と善人、自分と他人、損益も得失、生死のべつもない。全宇宙のすべての事物や生物・無生物、形而上・形而下の別なく等価であり、時間や空間を超越して全ては即ち一つのものであり、その一者こそが神そのものだ。

 私たちには、人間でありながらそれを超越できる可能性が内在している。一個の人間としての分別や見識、を維持しながらもその視点を失わず、全一性や無分別の境地にわずかでも足を踏み入れることはもしかしたら可能かもしれない。それが擬似的なものでしかないにしても、私たちは人間を超越した次元を思いを馳せることはできる。

 人でありながら人としての矩を超えた意識や視座を会得した瞬間、世界は一瞬で転換する。善悪や可否、生と死、物心などといった物事の境界線が消失し、肯定することも否定することもなく、あらゆる全てをただひたすらに観照し、あるがままの状態をただそのまま受け入れる妙境を体験する。

 私たちを取り囲む鏡の部屋はその瞬間幻のように消え失せるだろう。それは限定的な時間におけるほんの一瞬の経験でしかなく、とてもではないが生涯を通して貫徹できる姿勢や状態ではないかもしれないが、非人間的というか超人的な観点に依拠するときだけ、私たちは束の間鏡張りの牢獄から出られる。そしてそのような間においてだけ、その牢獄の実体が我々の心や精神、霊魂それ自体であることに思い至るだろう。心がそれに捕らわれているのではなく、心それ自体が私たちを縛り付けるしがらみに他ならないということを。