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書き捨て山

雑記、雑感その他

私の正体

 自分とは何かという問いは月並みだが究極の疑問だ。これは古代から現代に至るまで、おそらくすべての人間が人生のある時期には最低一度は抱く疑問ではないだろうか。青臭く、通常なら答えがでないこの問いは世俗的な感覚においては考えるだけ時間の無駄なものでしかなく、それに延々悩むのは余程の暇人か世捨て人くらいのもので、余人の大半は実際生涯を通してこの疑問を本気で解消しようとは思わないだろう。

 私たちは己自身を蔑ろにする。私たちは自分という最も重要なはずの存在について棚上げにして生活している。冒頭で述べたような疑問を取り敢えず保留し、日常の瑣末事に忙殺されながら暮らしている。それが当然の振る舞いであると認識して実利的な損得に頭を悩ませることに汲々とし、人生の根源たる自己への探求を怠ることが常態となっている。

 だが、人生とは自分自身を定義するための試行錯誤でしかないのかもしれない。人間は何のために生きるのか、という疑問も本稿のはじめに掲げた問いに並ぶほどのものではあるが、この2問は実は本質的には同一のものではないだろうか。私たちは己を知るために生き、人生の目的や目標も詰まるところは己を探し求め、発見することにあるのかもしれない。

 しかし、自分探しとは一個人の一生を費やしても足りない旅路である。自分自身をどう定義するかという問題はあまりにも遠大過ぎるように思われる。そしてそれに取り掛かることを経済的な観点で見たとき、一円も生み出さない徒労にすぎないと断ずるのは間違いでもないので人はそれについてはもう問いただしても仕方がないと諦めるのも妥当ではある。

 私は一個の人間としては恐らく取るに足りない存在だ。私は全く特別でも優秀でもなく、また平均や標準の域にも達していない個人にすぎない。自分が塵芥に等しい存在でしかないという客観的な事実は私にとっては大問題であり、かつ受け入れがたいことでもあった。

 自身への幻滅や失望が常に私を苛んできた。あらゆる面で自身について考察しても全く一つも肯定できる点が見当たらないように思え、私は己を激しく嫌悪した。鏡に映る自身の像にすら嫌悪や憎悪の情を抱き、本当の自分というものが何らかの形で何処かにあるはずだという漠然とした願望を抱くに至り、しかしそれが見つからないと私は日頃嘆き、不満を募らせていた。

 

 現実や日常における私は卑小かつ低劣な男にすぎない。社会的に低い地位に置かれているし経済的には困窮している。外見や容姿もとても褒められたものではなく、私は他者から好かれることも愛されることも極めて稀であった。世間一般の客観的な視座に立って己を省みたとき、その惨状は見るに堪えないものである。

 私は生来、貧しく無学な人間であった。生まれ育った場所は全国でも屈指の遅れた辺境の地で、両親も貧苦を常とし無知で頑迷であった。そういった環境で生育された人間が立派な人物になれる余地など当然あるはずもなく、私は貧乏で無知な田舎者になるべくしてなったといったところである。

 私は社会において、下流や下層と言った分類に当てはまる人間である。そんな厳しすぎる客観的事実は人生のあらゆる局面で私に突きつけられ、その度に私は煩悶した。私にとって自分が自分であることは呪わしく、耐え難いことであった。目に見える自身の姿や他人や世間の目で値踏みされる己の値打ちといったものが逐一私を苦しめてきた。

 自分自身が価値のない存在であることに私は常日頃苦しんだ。自分の生涯が無意味であることは私には否定し難く、それが何よりも嫌で煩わしく思えた。自分が他人よりも劣った存在でしかないという事実を受け入れることができず、その一事に私は随分と傷つき懊悩してきた。

 他者からも私は卑しく無価値な存在だと値踏みされることを私は常に恐れた。家族にしろ赤の他人にしろ、自分以外に人間が私を嘲笑したり侮蔑することが我慢ならなかった。そしてそれは大抵の場合、私の生得的な要素に起因する問題であったため、後天的な努力や心がけでは如何ともしがたいものであった。

 自分が唯一無二で高貴かつ値千金、特別で有為な存在だったなら、と私は物心ついたときから常に思っていた。希少で価値が高く、特異で尊重される存在になることができたなら、自他共にそう認める存在にたった一日でもなることができたならと、いつも願っていた。

 そして私は、自身をユニークでスペシャルな存在たらしめるために四苦八苦を重ねた。自分が考えられるあらゆる手段や方法で私は己の価値を刷新し、確認しようと試みた。そしてそれは主に精神世界や神秘主義に関連する価値観や世界観によって行われた。私は自身を特別で価値のある存在だと思いたいが為に通り一遍のスピ系の言説を頼りにして多大な労力を割いてきた。

 自分は掛け替えのない尊い存在だと思おうとしたが、現実が常に私の邪魔をした。己を有意義で価値のある意味ある存在たらしめる為の定義付けや設定を行うために、私は千の言葉を駆使してただひたすら苦労や努力を重ねた。自分が絶対で唯一無二の、至高の存在だと見做したいという一心で生きてきたが、己自身を満足の行く形で定義するというただその一事が私にはどうしても不可能であった。その悲壮な悪戦苦闘の果てにもたらされた好ましくない結論は、単に私を絶望の淵に追い込んだだけだった。

 

 そんな私はあるとき、一個の人間であることに見切りをつけた。人間としての価値や人としての生の意味についての煩悶は、己の本性や本分が人間であるという前提に根ざしている。ならば私は、自身が人間であることに重きを置かなければいいと考えた。人間として客観的かつ現実的に無価値で無意味で取るに足りないとしても、それが自己にとっての本質とは無関係であるならば、それはそもそも問題にもならない。

 私は人間であることや一個人であることを手放した。生きている限り私は人間でしかないが、それは私にとっての本質ではない。自分が自分であるということが、人としての肉体や精神、また霊的なアイデンティティとは全く別の何かに拠るのではないかということに思い至った。

 その時その瞬間、心身や霊魂などに基づく、個としての自我が融解していった。肉体を持った人間、戸籍や経歴を携えた個人としての私は上辺だけの一面に過ぎなくなった。また、霊的な主体としての一貫性を保った私という代物も皮相でしかなく、根源かつ本質的な自己はそれらとは無縁の何かであり、それが本来の私であると気付いた。

 この世、この世界、宇宙……どのような言い方をしても差し支えないが、要するに森羅万象の基盤となる全体性自体が自分自身の本来の姿であると私は「思い出した」。根源的な本質、この宇宙の礎としての己の本地を呼び覚まし、立ち返ることができるようになった。それは何の前触れもなく起こり、私は人間としての私を超越した己の本性に何の努力や作為も要せず想起させられた。

 私の本性は人ではない。あらゆる煩悶や懊悩、憂いや煩いというものは人間が人間であるがゆえに私たちが背負い被る苦しみである。人間が自己の本質を人間でないと見抜いたとき、それらはそもそも存在し得ない。

 私の本地はこの世の根源、宇宙そのものであった。無論それは人間としての私が直ちに消滅するとか、顧みなくていい存在になるという話ではない。人間としての私は上辺や皮相にすぎないが、その次元としての私は依然として在り続け、それは重要であり大切であり続ける。しかしそれは唯一の実相ではなく、私の正体がそれではないというだけのことだ。

 私が人間であるということは私を表す一つの側面にすぎない。多面体のある面がそれ自体、それ全体だとは決して言えないように、私たちの人としての姿や有り様も私たちを表象する一つの形でしかない。ただその当たり前の事実が浮き彫りになったというだけのことだ。