書き捨て山

雑記、雑感その他

一事

 私たちは人生において一体何を大切にすればいいのだろうか。世間を見渡せば、これには様々な回答があるだろう。それは自分自身の生存を確保し、財産を築くことだと言う者もいるだろうし、国や社会ひいては他人に奉仕することだと言う者もいるかもしれない。何かの分野に私心を捨てて貢献するという未知もあるのかもしれない。それがどのような答えであれ、それは完全に個々人に拠るものでしかないだろう。

 私という存在が生きる上で留意して置かなければならないのはたった一つのことだけだ。私にとって肝に銘じ、心に刻まなければならないと感じられるのはたった一事しかなく、それは先に述べたような社会的に余人がよく主張するような答えとは全く異なった性質の代物である。

 十や百の事柄を心に留めておける者は稀だろう。そういった才人はもしかしたら存在するかもしれないが、それはこの世の中において本の一握りの人間だろうし、言うまでもなく私はそれではない。また、大切に思わなければならない事柄がいくつもいくつも挙げられるならば、人はそれらによって雁字搦めになってしまうだろうし、それによって私たちは大変生き辛い思いをさせられるだろう。

 しかし、たった一事ならどんなに愚かな人間だとしても苦ではない。思えば、私は愚鈍で浅薄な人間だからこそこの一事を完全に捉え、気に留めることができると言えるのかもしれない。一個人、一族、一国家などといったものとは全く異なる一事のみが私にとって重要であり一大事であった。

 その一事とは、私の本性はこの世界そのものであり、この世を形作る根源的な何かであるということだ。よくスピリチュアル関係の分野においてはアートマンブラフマンであるなどといった言説が頻繁に語られるが、私はそれに近いことを身を以て知るに至った。それは新しい知識ではなく、自身が生まれながらにして「それ」であったということを改めて思い出したにすぎないのだが、これは私にとって驚くべき再発見であったと言える。

 これによって私は場所や時間を問わず、完全に安泰である。私は人間であること、一個人であること、日本国民であることは揺るぎないことではあるが、それらの属性や要素といったものは私にとってのただの一つの面でしかない。それらの一つ一つは蔑ろにしても構わないなどと言うつもりは毛頭ないが、しかしそれらは私にとっての本質ではない。本質ではないが故に、それらの観点から見た私の値打ちや意義といったものの仔細については全くシリアスになる必要が無いというだけである。

 

 人間という存在は、何を大切に思うかに拠っている。自分の生命や財産にのみ注視する人間は単にただそういう存在でしかない。私はそれについての善悪や是非について論ずるつもりはない。また、社会の公益や他人の幸福のために奉じ、殉じさえする大人物であっても、それは単にそれがその人の性質を表しているだけだ。個人が重視しているものが、それが何であれそのままその当人を表現しているのである。

 それは一個の人間としての心身かもしれない。私たちにとって自身の肉体や精神は掛け替えのないものであることは疑いようがない。だからそれを何よりも大切なもの、唯一にして絶対なものであるとし、それを第一に考えて行動するというのは全くおかしい話ではない。そういう指標に則って生きる生き方は世の大半の人間が実践している。

 または死後も存続する霊体かもしれない。自身の本質が霊魂であり、生前も死後も永遠に不滅であるという考え方は宗教や精神世界などに傾倒する者が抱く思想である。自身の霊を何よりも大切であるとする考え方も一般的であり、現世利益だけに終着するような人間であっても、自身の死期が迫ればその多くは己の不滅を信じたくなり魂や霊としての自分が何らかの形で存在し、それが何よりも重要であると改心することもままあるだろう。

 何に重きを置くかが個人のアイデンティティとなる。それが即物的なものであれ観念的なものであれ、大事に思っているものがその個人の本質でありその人をそのまま表現する。何を大切にし、何を第一義とするかに貴賎や優劣は一切なく、単にその事実は「汝それなり」ということを表しているだけだ。

 今の私は最早肉体も精神も霊魂も一大事ではない。余人にとっては重大な関心事となるであろうそれらが私にとっては少なくとも「最も大事」ではない。最重要事項としてそれらを挙げる者は世間においては大多数かもしれないが、私はそれではない。それは私が特異だとか特別だとかなどという話ではなく、単にそれでないという事実だけがあるのみである。

 無論それらは人間としては大切かつ重要ではある。私は目下人間としてこの世に生まれ落ち、依然生存しているため、人間としての自己がまったく無視して捨て置いて問題なし、とはならない。どんな屁理屈を言ったところで、私が一個人であること、一個の人間であるという側面を完全に否定することはできないし、全く重要でなくなるということはあり得ないだろう。

 しかしそれには「人間として」という注釈がつく。私にとっての人間としての側面は数多くある面のほんの一つでしかない。それは唯一無二の絶対的な重大事ではないと言っているに過ぎない。それを軽く見ていいということではなく、私は単に人としての自分としてどうであるかという問題だけに煩わされるべきではないと述べているのである。

 私は自己の本質は「人間としての視点」を超えたことろにあると感じている。それは大切ではあるが絶対ではない。これをはっきりと述べるのは難渋なことではあるが、人間でありながら人間に限定されない要素が我々にはあり、それにフォーカスすることで見えてくる境地のようなものがあると私は考えている。

 

 私は自己の本性はこの世界の根源、宇宙そのものだと感得した。自分が何者であるかという疑問への一つの答え、それは私は即ち全体自体であることだ。私はこの世の全てであり、一切合切の全部を為す源が自分自身の正体だ。

 一個人としての私はその根源の一つの現われや状態にすぎない。私は田舎出の貧乏な日本人でしかないが、それは私の本質や本性、本地ではない。それは否定のしようがない、動かしがたい厳然たる事実ではあるが、それ自体が私ではない。だからそのことに対して私はシリアスに悩んだり苦しんだりする必要が全くない。

 自己の本質は宇宙やこの世などの全体性の根源である。あらゆる一切を生み出し、形成し、維持し、消滅させる大きな全体が全て丸ごと私であるといえる。私は肉によって私であるのではない。また、私は精神や霊魂と言った形而上の概念的な主体それ自体にも限定されない。霊格や人格、肉体にも依存しない自己の本質とはこの世界そのものであり、宇宙自体が己であると私は言い切る。

 この世界全体が私であり、だから私は無限かつ不滅である。私の肉体は私の全てではないから、私は肉体が生み出された日に生まれたのではない。だから私の肉体が死ぬことは私の滅びを意味しない。また、それは精神や霊魂に対しても同じだ。それらのどれもが私を限定的に定義し、規定するのではない。私は特定の何かではないから、不滅であり普遍である。

 このたった一事を留意し続けることで最早人間としての問題は瑣末事となる。この世を成す根源としての空間や宇宙こそが私である。心や体はその「大きな私」、「全体性としての私」が顕現した一つの形でしかない。その一表象としての私の煩悶や苦悩といったものは本質的な意味において私を痛めつけたり苦しめたりすることは決してありえない。

 一事が万事であり、それだけにフォーカスできるかが常に私に問われ続ける。この世の根源、大元となる宇宙や空間こそが己の本地なのだと私は何度でも繰り返し宣言し、自らに言い聞かせる。私は一個の人間、一個人ではあるが、それよりももっと大きな本性を具有しており、それこそが本当の私なのだ。そしてそれとしての私は完全無欠であり広大無辺にして永劫に不滅である。

 それとしての私には何の不足も欠乏もなく、悩みや苦しみなど抱きようがない。そのたった一つのことを常日頃、どんな瞬間においても見失わないなら私には何の憂いも煩いもありえず、何の問題も生じない。