他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

限界

 人間にとっての限界とはなんだろうか。改めて考えてみれば、私たちの人生には常にあらゆる制限や限界が存在する。様々な意味において私たちは有限であるし、日常の生活や暮らしの中で無制限にできることなど一つもないと言っても過言ではないだろう。

 そんな事実に思いを馳せれば、私たちの生は息苦しく窮屈である。限られた可能性や機会を失わないように、損なわないように常に恐れと不安を携えて生きなければならない。そんな避けがたい現実が私を暗澹たる気持ちにさせる。それと同時に私は、無限や永遠と言った代物に強く惹かれる。

 私の肉体はやがて老い朽ちるだろう。人間は生まれたときが最も若く、それから刻一刻と年令を重ね、決して若返ることはない。人生の盛りをすぎれば只々年老いて体の節々の自由が効かなくなり、風貌も衰え老醜を晒していくだろう。そして我々は最終的には死に至り、死骸は荼毘に付され遺骨は埋葬されそれで一個人としての生は幕を下ろす。

 私の精神はその肉体を土台に存在する。心は健全な肉体があってはじめて正常な機能を保つ。私たちの体が健康を害したとき、私たちの精神は直接影響を受ける。肉体を損ないながら精神を強く保つことは殆ど不可能と言ってもよい。肉体の壮健さに限りがあるなら、私たちの心もまたそれの如何によって大きく左右されるだろう。肉体の自律神経が失調したとき、正常な真理や精神が維持されることは殆ど無い。その事実だけでも私たちの精神が肉体と不可分であることは疑いようがない。

 心身ともに私は限界がある。これは疑いようも動かしようもない真実である。人間としての肉体と精神が有限で制限だらけであるということを否定できる人間が果たしてこの世の中の何処にいるだろうか。私たちは己の限界を常日頃さまざまな形で、さまざまな状況下で思い知らされるし、それに対して何も思わずにただ安穏としていることもできないだろう。

 自分が有限な存在だという事実は私を大いに悩ませた。私にはやりたいことがたくさんあったし、行きたい場所も数多くあった。しかしそれらの大半を為すこともなく私は老いさらばえてやがて惨めに死んでいくだろう。そんな人生への目算が私を苦しめる。自分が有限な存在であること、限界を超えることは能わず、制限を強いられた生を送るしか選択肢が与えられていないということが、私には我慢ならなかった。

 

 私は自分の人生を振り返りながらも未来についても考える。もし自分があと20歳若かったら、そういった一円の特にもならない空想や妄想に耽るようになったのはいつごろからだろうか。今現在の私は既に若いとは言えず、これから先の展望にも明るい兆しなど一切ない。このまま馬齢を重ね、惨めな男として生涯を閉じる将来の己の姿が目に浮かぶようで、私は前触れもなく後悔と絶望の念に駆られる。

 私はもう戻らない青春や、ただ年老いるだけの将来を悲観する。学生時代をやり直すことは不可能だし、今頃になって発奮して決起したところでもう、大したことはできそうにもない。同世代の人間は然るべき青春を送り、然るべき職に就き、然るべき収入を得、然るべき伴侶と然るべき子供を得て然るべき家庭を築いている。自分がこれから先いくら発奮したところで、これらのうちの一つでも達成できるだろうか。恐らくそれは無理だろう。私は自身の能力や将来性に限界を感じており、その範囲内で先に挙げたような「偉業」を成すことが能わないと分かってしまっている。

 私は自身の容貌が年々若くなくなっていくのを感じる。一個人として、一個体としての自身の限界や不可能性を日々思い知ることが多くなっている。もう若くないという現実は私の生を生きづらくさせる。それは偏にもう自身の可能性が狭まっているということである。肉体的には成長することはあり得ず、精神的な面でも三つ子の魂百までという言葉通り、大きな変化は望むべくもないだろう。

 私は自分にまつわる限界についてももどかしく思う。若さは可能性そのものであり、それが失われるということは個人としての限界が見えつつあるということを意味する。個人として行き詰まり、制限や限界を目の当たりにして失意や絶望に打ちひしがれているのが現状である。

 私にとって余暇や休日は有限であり、自由に使える金銭にも限りがある。無限に好きにできるものなど改めて思えば私には何一つない。自分自身というものはたかが知れている。そう考えればただ虚しく、やるせない。ままならない人生に窮屈さを覚え、それから逃れられない現実にほとほとうんざりさせられる。

 自身を束縛するあらゆる条件や制限を私は呪わしく思っている。何処にも行けず、何にもなれず、何も為すこともない人生。取り戻すことができない好機や望むべくもない成長や発展。そういったものに思いを馳せればはせるほど、自分という存在の限界や幽玄さを強く意識させられる。

 しかしそれらによって呪縛される私は、それらによって規定されもする。できないことや果たせないことは、自分が何者であるかを私に知らしめる。自分にとって不可能なことを列挙することは、それは遠回しに自分自身について語ることでもある。

 制限や限界の中で人間は己を定義し、自身を知る。自分にとって可能なことや成し得ることよりも、その正反対の事柄がより正鵠を射た自己への言及となる。有限性こそが自分が自分であることを表している。不可能なことや無理なことは自分を形作る諸要素となっている。

 

 人間を個人たらしめるのは記憶や思考ではなく、己を束縛する制限や限界なのかもしれない。自己同一性やアイデンティティとなるのは本質的には為し得ない事柄であり、その総体が私であると見なせる。

 人間としての自分とは有限性そのものなのではないだろうか。自身の寿命や能力の限界が個人を規定し定義づける。自己の実体はできないことを通してうかがい知ることができ、私は何者なのかといった類いの疑問の明々白々たる回答はそんな不本意な事実の中に明確に存在すると言っても過言ではないのかもしれない。

 それならば、限界や制限を厭う気持ちは、本質的には自己嫌悪であると言える。自分自身における嫌いな側面や要素というのは、突き詰めれば成せないことやできないことに起因する。不可能性や有限性に悩み苦しみながらも、それらが自分を自分たらしめる不可欠な要素であるというのは皮肉めいた現実だ。自分自身を嫌うということと自分にまつわる限界を嫌うことは全く同じことであると言える。

 私は私が私であることなどに最早大きな意味を感じない。自己のアイデンティティとして機能している諸要素が限界そのものであると気付いたからだ。限界を超えるということは自己を否定することである。

 自分とは限界そのものであり、それを肯定するか否定するかで身の振り方は全く異なるだろう。私は一個の人間としてはもうたかが知れているが、そこに執着しない視座に立つならば、限界や有限性などといったものから解放されるのではないだろうか。

 一個人、一個体として私を定義づける制限や限界から解き放たれることが真の自由であると言えるし、それが私が目指すところであると気付いた。私は限界や制限の中で自己を規定したり定義づけることを取りやめ、無限や永遠のなかで在り続けることを志向する。

 個人であるということは限界を定めることであり、無限や永遠に帰依・帰属するなら個人としての視点や観点から留まることはできない。一個人としての限界や制限から脱却すれば、その瞬間から私は広大無辺であり永劫不滅の存在となる。