書き捨て山

雑記、雑感その他

問題視

 生きるということは問題を抱えることである。我々の人生はたとえどれだけ満ち足りた素晴らしい生涯であったとしても、問題と無縁な生というのは恐らく存在し得ないだろう。私たちは大小や多寡の違いはあっても、万人がそれぞれの問題に対処しながら死ぬその日まで日々汲々とし、ほうほうの体で精一杯生きている。

 私たちにとって何の問題もない日など存在しないだろう。仕事がある日には当然業務上の諸問題に頭を悩まされるだろうし、仮に休日であっても、休みの日には働いている日とは全く別物の面倒事や悩みに直面させられるのが常である。少なくとも私は一つも問題がなかった日などこれまで生きてきて一日もなかったし、それは世のすべての人間にも敷衍して言えるだろう。

 個人とは諸問題の寄せ集めだ。皆それぞれ、一人の例外もなく我々は数多の問題を抱え、それにより煩わされながら生きている。その一つ一つをあげつらうだけでも日が暮れるほどの問題を私たちは抱えているし、我々の生が内包する問題の多種多様さはどれもドラマティックでバラエティに富んでいる。ある意味驚嘆すべき事実である。

 そんな数え切れない問題の解決のために私たちは悪戦苦闘する。生活や人生を楽しむことなど二の次にして、私たちは己の身に降りかかり、自身を煩わせる問題の数々と常に格闘する。それが分別のある理性的な人間としての正しい生き方だと信じながら私たちは数多の諸問題に直面し、それを解決・解消するために人生の多くの時間を捧げる。

 私は生まれつき問題だらけだった。生まれも育ちも悪く、容姿にすら恵まれなかった私にとって、自分を指し示すあらゆる要素や事実が即ち問題であるように思われた。そしてそれらの大半は後天的な努力や心がけなどでは到底解決しえないものばかりであった。山積した問題とそれが解消できないという動かしがたい現実に私は絶え間なく苦しみ、そして傷つきながら今日まで生きてきた。

 加えて、それらが一つも解決しないということはさらに大きな問題であった。人生の殆どの時間や多大な労力を犠牲にして問題について煩悶し、悩み苦しみながら出来る限りの手段を講じているにもかかわらず、結局問題の多くはそのまま解決も解消もされずに明日や将来に延々と持ち越され続ける。問題に直面することだけでなく、それを克服できないことが一層私の心を乱し、私は己自身を苛み続けた。

 

 しかし、問題はなぜ問題なのだろうか。私たちは「こんな問題がある」、または「これは問題だ!」と言い立て叫ぶばかりで、それらがなぜ問題であると言えるのだろうか、といった点については考えることは殆どない。問題はなぜ問題なのか、という疑問は多くの場合ただの屁理屈や考えるだけ時間の無駄な愚問として処理されるのが常だろう。

 そもそも、問題は解消されるべきなのだろうか。問題が解決し、それが克服されれば私たちは喜ぶが、一つの問題の解消が即ち大団円だと言えるのは稀である。むしろ一つの問題の終焉は新しい問題の始まりとなる。一つの問題を終えても、別の問題がまた浮き彫りにされ、それが終わったとしてもまた別の何かが……といったように延々それが繰り返される。そのような営みに虚しさを感じない者はいないだろう。

 仮に私たちからあらゆる問題が取り払われたなら、それはいいことだろうか。悩みも苦しみも悲しみも一切なく、面倒で大儀な事柄も何一つなく生きられるとしたら、私たちはどんな目標を持って生きていけばいいのか却って途方に暮れてしまうのではないだろうか。問題が一つもない生など我々には想像するしかないが、それが薔薇色で素晴らしいと手放しで言い切れないのもまた事実だろう。

 人間にとっての生の詳細は、抱えている問題に依っているという事実は無視できない。私たちは直面している面倒事や取り組んでいる問題を通して己が何者かを知る。そしてそれは自分を自分たらしめる己の一部をなす要素となり私たちにとって実は欠かすことのできない存在になってしまうことすらままあるだろう。

 どんな問題に向き合っているかが個人の本質である。政治問題を取り扱う者は政治的な人間となり、教育問題を取り扱う者は即ちそれとなる。私たちを規定するものは私たちが直面する諸々の問題であり、それこそが私たちの実相、本質であると言っていい。それは克服されたり取り除かれたりされるべき代物ではなく、私たち自身を決定づける我々と不可分な何かなのである。

 そう考えれば、個人を個人たらしめるアイデンティティとは、当人にとっての問題そのものだとも言える。自分の存在意義や己を定義するための不可欠な要素とはその人間にとって問題視している何某かであり、それなくしてその人物はそれたり得ない。私たちが自分が自分であると胸を張って明言するには、自分が何を問題だと見做しているかを表明しなければならない。

 そのため、己が何者でどんな存在であるかを明確にしたがる限り、私たちは問題に煩わされ続ける。人間にとっての自己の確立は、自身を煩わせる面倒事や改善されなければならない不備などといった諸事を問題視することと完全に同義だ。私たちが自分であり続けるには常に問題に悩み、苦しみ続けなければならない。それを厭い避けながら、我々が自分自身で在り続けることなど不可能だと言っていい。

 ある個人が何かを問題だと思うことでそれはその人を表す要素となり、それがその人を定義する根拠となる。仮の全ての問題が私たちから「取り上げられ」ることがあったら、もしかしたら私たちはそれに反対しさえするかもしれない。完全な問題解決は私たちにとってのアイデンティティや存在意義を脅かす脅威たりえる。それを私たちは自分でもそれと知らずに本心では忌避しているのではないだろうか。

 

 さらに言えば、私たちは心の内奥では問題を常に欲しているのではないだろうか。自己を確立し、人生の意味や目的を明確化するために、問題に直面することを我々は実は渇望している。私たちにとって何かに煩わされ、苦しみ、それと戦い続けることは実は本望なのだ。どんな瞬間においても私たちはそれを心待ちにし、それが失われることを恐れているのが本音なのだ。

 問題を求めているからこそ私たちの生は問題だらけなのだ。人間が不幸や苦悩から解き放たれたがっているだとか、問題の解決や克服を願っているだとかいうのは根本的な誤解である。私たちは私達自身の本願に無自覚であり過ぎる。私たちは諸般の葛藤に呻吟することが内心喜ばしく、嬉しくて仕方がないのである。

 また、問題を見つけるために私たちは相当な労力を割いている。先に述べたとおり、問題に直面し、懊悩することで私たちは己がどういう存在でどんな意義を持っているかを自覚できるのだから、どんなときでも絶え間なくそれが恙無く執り行えるように私たちは苦しみの源たる問題を血眼になって探し求めている。もし身近に何一つそれが見当たらず、発見できなかったとしても私たちは無理矢理にでもそれを捏造しさえするだろう。

 私自身、大いに心当たりがある。子供の頃には問題だと思っていなかったはずのことを現在は問題視していたりもするが、それはまさしく先に挙げたような問題の捏造であると言えるだろう。人間が幸せや自由、安楽を願い求めているなど大嘘だ。自分が何者であるかを知るための極めて安易な手段として、私たちは森羅万象の中に問題を求める。問題視するものが多ければ多いほど私たちは何かに苦しむ。そしてその苦しみが私たちの存在をより強固なものにする。それが私たちの何よりの望みであり、私たちの本心からの喜びなのだ。

 問題はそれ自体が問題として存在しているのではない。問題は問題視する人間がいることではじめて存在しうる。そしてそれは本当は改善されたり根絶・撲滅されなければならない何かではなく、問題視するその人が自身を定義付け、意味づけるための道具として機能している。問題とは人間が自身の存在に箔をつけるための装飾品でしかない。

 ある事象や事物を問題視する私たちの精神の中にこそ真の問題がある。それを求める心がそれを盤石なものにしている。問題がある時、その根本・根源はそれを見出している人間の内側に常に存在しているのだと私たちは知らなければならない。そして私たちはマゾヒスティックな自身の本音や本心を自覚しなければならない。

 苦しむことが好ましく、喜ばしいならば大いにそれに耽るべきだ。それを希いながらそれを否定するかのような姿勢を表明することは不幸な倒錯である。己の本当の望みが苦しむことや悲しむことならば、それを存分に追求するべきだ。

 もっとも、私個人はそんなことはもう御免被りたい気持ちだ。そしてそうだとしたら、苦しみを欲し、問題を求める思考や行動のパターンを唾棄し、それから脱却する必要があると言えるだろう。それを成就させたいと本当に腹の底から願うなら、これまでの生で踏襲してきたあらゆる言動の様式や精神活動の形式とは距離を置かなければならなくなるのだろう。