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書き捨て山

雑記、雑感その他

不機嫌

 仕事の間、今日の私は絶えず不機嫌だった。連休明けて各取引先からの受注が溜まっていたし、週明けの忙しい日にもかかわらず、普段行わないイレギュラーな業務も追加でやらなければならなかった。加えて、業務を行う上で必要な機械の調子が悪く通常よりも仕事の進みが遅くなり全体的に進捗が芳しくない状況で終始私は苛立ちを隠すことができなかった。

 私が気分を害するのには正当な理由がある。先程述べたのが大体の詳細であるし、加えてそれらに耐えたところで大した実入りはない。おまけに時間外労働も行わなければならないし、それに対しての対価は全く得られない。そんな職場に対する不平不満や社会や他人への鬱屈した感情が募り、私は機嫌の悪さを常に腹の底に抱え込み、心の中はいつも乱れ耳だれている。

 私が機嫌や気分を害する要因は無数にある。今日は仕事のことで不機嫌になっていたが、会社で被る諸々の事柄とは全く無関係な事情にも私は頭を悩ませ、その度に煩わしい思いをさせられる。私は家族をはじめとしたあらゆる人間関係で齟齬が生じる度にふさぎ込み顔をしかめる。また、自分の過去へ後悔の念を抱いたり未来への不安や絶望を感じたりする度に暗澹たる気持ちにあり、そのことは逐一私の表情を曇らせた。

 逆に私が上機嫌でいられる状況は数えられるほどしかないかもしれない。私の心中が穏やかなまま一日をやりおおせることなど一年で一体何日あるだろうか。朝に目が覚めてから夜に寝入るまでの間に直面する事物や事象への感情は勿論、それらと無関係に胸中に去来する記憶や思いに心を掻き乱されることが全く無く、安楽に安穏と生きられる日が本当に私の人生に一度でもあっただろうか。

 不機嫌はどうしても表情や態度に出る。自分では無表情・無反応を貫こうとし、実際にそうしているつもりであっても、全くそれらが仕草や挙動に反映されないようにするのは至難の業だ。自分ではできているつもりでも周囲にいる他人からの指摘で否が応でも気付かされることもしばしばだ。そしてその度に私はより一層悪感情に囚われるという悪循環に陥る。

 不機嫌はあらゆる面で、自他共に良い結果をもたらさない。自分が他人からそういう感情を表明されたりぶつけられたりする状況に置かれればそのことはよく分かる。相手の機嫌が悪いとこちらの気分も害されるし、そういった感情に煩わされれることで生産性のある結果がもたらされることなど稀だろう。いや、全くないと言っても過言ではない。不機嫌は悪徳であり、損失であり、誰にとっても迷惑千万なものだと言える。

 

 思い返せば私は物心ついたときから快活でも明朗でもなかった。何も社会に出て様々な理不尽や屈辱を味わわされるようになってから不機嫌な感情に支配されるようになったということではない。悪感情が内心で常に惹起され、落ち込んだり憤ったり、昇進に沈み不遇を託つのは私の生来の気質であったと思う。これは生まれついての性分であり、かなり根深いものだと自覚はしている。

 有り体に言えば、私は根暗だった。不満があっても口に出すこともできず、嫌な思いをしても発言したり行動に示すこともできずただ溜め込むことしかできなかった。口は達者ではなく、表情はいつも暗く、後ろ向きで内罰的な思考や感情が私の内面を常に支配していた。

 私の陰気さは周囲の多くの人々を不愉快にさせた。私には異性も同性も全く寄り付かなかったが、それは改めて考えれば仕事当然のことであった。弱気で陰険な人間と関係を結び交流を深めたいと思う人間などこの世には存在せず、人々は私から離れ距離を置いていった。そしてその歴然たる事実を目の当たりにし、私は世間や社会に対して絶望の念をひときわ募らせるばかりであった。

 とりわけ私の態度に憤ったのは両親であった。お前はなぜそんな顔をするのか、お前はなぜ暗いのか、明るくる振る舞うことすらできないのか、何が気に入らず不満なのか、父も母も私に常日頃そのような詰問を浴びせた。そんな両親は私のことで常に頭を悩ませ、彼らも私よりいっそう不機嫌だったしどんな時でも怒りや失望、軽蔑や嫌悪の情を私にぶつけるのであった。

 私は常に気丈に振る舞おうとしたが状況がそれを決して許さなかった。家は貧しかったし、将来の選択肢もなく私の先行きはどんな時も一条の光明すら見出すことはできなかった。子供の頃から私は将来に絶望していたし、人間全般に対して幻滅してもいた。人生のかなり早い時期から私は自身の人生や生涯に何の希望も見いだせず、私の精神はいかなる瞬間にも失意のどん底にあった。

 大人になった今も、私はほとんどの時間を不機嫌に過ごしている。未来は一層暗く感じられるし、これまで経験してきた悲惨な思い出は何の脈絡もなく心の内奥から浮かび上がっては私を苛める。生活は金銭的に常に苦しく、望まない仕事をやらない選択肢などは考えられない。給料は少なく拘束時間は長い。社会的には卑しい職業であり、人に胸を張って言えるような仕事ではない。そんな生涯は生きれば生きるほどに恥の上塗りであり、そんな人生を強いる社会に私は常に不満を抱いている。

 悪感情が自身に不利益を与えることなど、私には重々承知である。どんな矜持や憂き目に遭わされてもアルカイックスマイルを湛え、寛容かつ鷹揚な態度で全ての人間に対して接することができれば、誰一人私を邪険には扱わないだろう。もしそんな生き方ができればそれはどれだけの恩恵を私の人生にもたらすだろうか。しかし、私の姿勢や態度はそれとは真逆であり、だからこそ私の人生は実りが少なく、幸に乏しいものであった。

 それでも、三つ子の魂百までという諺が私にも当てはまってしまう。凪いだ水面のような穏やかな心が、自身の人生に安逸と祝福、安楽を与えるのだと頭では理解していたとしても、主観的にも客観的にも私が置かれている状況はとてもではないが穏やかに暮らせるような代物ではないことは明白であった。私の生涯を上機嫌でやりおおせることなど狂気の沙汰としか思えず、だから私は憂鬱や腹立たしさを常に携えて生きるしかなかった。

 

 己を御する術を身に付けたいと私はずっと願ってきた。どんな状況や局面においても自身にとって望ましい精神を維持することは私の長年の望みであった。到底できず、目下できていないものの、もしそれが自分に能うならどれだけ素晴らしいことだろうかと私は夢想はしてきた。

 努めて明るく朗らかな表情を作ろうと悪あがきしたこともあった。自己啓発や能力開発、スピリチュアル系の分野に傾倒し、引き寄せの法則などを参考にして無理やりポジティブに、容器に振る舞おうとした。しかしそんな見せかけの明るさは社会や他人などが私に突きつける現実によって呆気なく打ち砕かれるのが常であった。

 それは現在においても成就していない。現に今日の仕事においては始業から終業までの間、誰に目にも明らかなほど私は追い詰められた表情をしていたし、声音にもそれが出ていたかもしれない。それが自然で正常な反応だから苦虫を噛み潰したようなかおをするのは当然だという風に、どれだけ心がけていても実際の生活ではどうしてもなってしまうのが現状である。

 思考や感情などといったものは、結局のところ自分のものではない。自身が身を置く状況や環境などといった外界は勿論のこと、精神や心などといった内界に関しても私たちは完全にコントロールすることは不可能である。できないものはできないと認めることも時には必要だと私は思う。

 しかし、自身における心の動きを観照することはできる。御することは能わずとも、自由にならない内的な現象としての機嫌や気分と自己を同一視せず、その情動に振る舞わされることなくそれらとは距離を置くだけなら現実的で私のような人間にも可能な範疇だろう。

 人間に必要なのは何かを被る態度ではなく、ただ観察する姿勢だ。お好みの情緒や情動、感情や精神を都合よく作り出し、それに固執し維持ようという試みは成功したためしがない。私たちは自身の内面が自分の物ではないということを知らなければならない。そしてそれが我が物でないなら、それがままならないのはそもそも必定だと言える。一切の執着はそれが自分の物だという迷妄から生じる。感情や情緒もまた然りだ。問題なのは不機嫌なることではなく、自身の情動を制御しようとする試み自体にあると言えるだろう。

 不機嫌な人間ではなく、不機嫌を観る人になる。不機嫌を滅尽することは能わなくてもそれなら十分可能だろう。