書き捨て山

雑記、雑感その他

自己無責任論

 私はかつて幼児だった。生まれ落ちた場所は文化や文明の光が届かない鄙びた農村で、家は貧しく家族は頑迷かつ狭量だった。当時の私はそんなことを理解する能力もなく、ただ毎日を漠然と生き、父や母の言動を唯一絶対の真実だと教え込まれそれに従って暮らしていた。

 私はかつて子供だった。自分が生活している場所が世間一般の標準と比べて著しく遅れているということや、両親が必ずしも正しく賢明ではないということにうすうす気づき始めた頃だ。学校では担任の教師に執拗に目をつけられ、毎日のようにいびられた。やりたくもない将来の役にも立たないそろばん塾に通うことを親に無理強いされ、学校と塾は私にとって地獄のように嫌で辛く苦しかった。私にとって自身を取り巻く全てが理不尽に思われ、何もかもが呪わしく思われるようになった。

 私はかつて学生だった。生得的に与えられた境涯の中で限られた選択肢の中から「自己責任」で自身の人生を歩まなければならなかったが、私にはその範疇でどんな生き方をしても不本意でしかなく、どうしたら良いか分からず途方に暮れ徒にただ時間を無意味に浪費するばかりであった。

 そして、ほんの数年前ですら、今の私にはとてつもなく遠い昔に思える。卒業証書という紙切れ一枚を渡され大学を放逐された私は、新卒をふいにした代償を社会に出て払わされることにった。底辺職を転々とし、貸与された奨学金を返済する目途は全く立たないまま無意味に年令を重ねた。若者というカテゴリーに分類された時期は瞬く間に過ぎ去り、人生の盛りは屈辱的な労働と貧苦に喘ぐ日常をやり過ごす為だけに費やされた。

 私は自身の生涯に後悔の念しかない。人生のどんな場面においても好ましいものや望ましい結果に浴することはただの一度もなく、私は理想や夢想とは全く正反対の現実に常に打ちのめされた。どの時期を振り返っても楽しく思い起こされる追憶など一つもない。苦々しいトラウマと無知や過失による誤った選択への悔恨だけが脈絡もなく脳裏を駆け巡り、人生にまつわる一切の記憶は私をどんな瞬間においても私を打ちひしいだ。

 ともすれば、今の卑しい労働に身をやつす、さもしい生活にもいつか悔やみ惜しむ日が来るのだろうか。憂鬱で腹立たしく、無気力や倦怠感が充満した現在の日常すら、あの時ああしていれば、と遠い未来の年老いた私には思われるのだろうか。少なくとも懐かしい思い出の一幕として今の暮らしを振り返ることは絶対にないと断言できるのが悲しいところではある。

 

 思い返せば、私の人生で思い通りだったことなど何一つない。好きなものに近づくことも、欲しいものを手にすることも、望ましい未来も何もなかった。人生は苦難と理不尽、不条理と不都合に満ち満ちて、私は幼い時分からずっと悩み苦しみ、悲しみに沈んで毎日をただ汲々を生きるだけで精一杯という有様だった。不本意な人生しか送れなかった後悔と、これから先もそれが覆りはしないという絶望とに板挟みにされ、私は目下自身の生涯にほとほとうんざりさせられている。

 しかし、なぜ私は自身の生涯がままならないことを嘆くのだろうか。思い通りに生きられないことがそのまま苦しみに結びつくのが法則めいているように感じて生きてきた。しかしそれがなぜ、どんな理由でそう思われるのかということについては終ぞ考えずに私は、訳も分からず自身の内面で起こる残念無念といった感情に囚われてきた。それは例えるなら、敵の詳細について知ろうともせずにそれを恐れ続けるようなものだった。

 私は人生は自分のものだとずっと思い込んでいた。人とのしての私の生と私自身は完全に等号で結ばれ、生涯に何を被り何を浴したかという主観的経験と客観的事実の蓄積や集大成が己の値打ちや意味、存在意義を決定付けるのだと信じた。人生と自分自身が不可分であるという前提は私に限らず余人の大半が共有する認識だろう。

 だが、そもそも私たちは自分の意志で生まれてきたのではない。産湯に浸かった日のことを鮮明に覚えている人間はこの世にどれだけいるだろうか。そしてその時に自分が満を持して産まれてきたなどという確信を持っていた者は果たして存在するのだろうか。私たちの大半は意図せずに不意に女からひり出され、気がついたら良く分からない状態でこの世に漠然と生きていた、というのが実際のところではないだろうか。

 また、生育環境などの境遇も自身で決めたのではない。個人とは環境の産物に過ぎないが、それが完全に望ましいものである事例は世の中においてはそう多くはないだろう。文化や文明に浴しながら聡明で寛容な両親のもとで育ち、幸福な少年時代を送り、然るべき正しい教育を受けられる境涯を選べるものなら誰もがそうするだろう。しかし、そういった星の下に生まれたものですら、それを自身で選び取ったわけではない。

 肉体も精神も自身で選んだのではない。背丈や顔貌などを自らの意志で形作ることができる人間など存在しない。私たちは親の要素を多分に受け継いだ肉体とそれを土台にして醸成された精神を携えて生きていくより他はない。そこにはどんな自由もなく、選択肢など端から設けられていない。外的な要因に拠る心身を自分自身だと見做し、また他人からもそう見做されて、私たちは生を強要されているのだと言っても過言ではない。

 自分に関する諸物の殆どは私の意志や選択とは無関係である。自身の生まれや育ち、肉体に至るまでの全ては私の希望や思いなど一切汲み取られていない。私たちは己の生の詳細について何一つ選ぶことも決めることも能わない。自身の意見や考えを表明し、それらを現実に反映させられることは稀だ。仮にできたとしてもそれは枝葉末節の重要でない些事に限ったことである場合がほとんどだろう。

 肝心なものに私の考えや思いが及ぶことなど実は一つもない。人生自体もまた然りだ。自分が意図しない望みもしない生を「お前の人生だ」と言い聞かされて私たちは不可抗力で無理強いされているに過ぎない。自分の意思で決めたものではなく、単に押し付けられた生について何故私たちは責任を取らなければならないのだろうか。本意ではない生なら、それに対してシリアスになる必要性が一体何処にあるのだろうか。

 

 

 自分の人生がままならないことを私たちが苦に思うのは、それを我がものだと見なすからだ。他ならぬ誰のせいでもない自己責任の結果として自分の人生というものがあるという前提に根ざした思い込みでしかない。

 人は自分の意志で産まれてくるだとか、親や環境を霊的に選択してこの世に生を受けるだとかいうスピリチュアルな解釈には何の根拠もない。それを盲信し確信を持つことができる人間は少数だ。少なくとも私はそうではないし、そうでないならばそういった思想に与する義務もないだろう。

 私たちが与えられた生を悔やむべきなのは一から十まで自分に責任がある、それを負う必要がある場合に限った話だろう。私が生まれたことは私が望んで起きた出来事ではない。また、私の生涯すべてを通して社会や他人の思惑の中でその大部分が勝手に決められたことにすぎないし、私はそれによって被った自身のあらゆる苦境や辛酸、艱難辛苦に対してもう責任がないことを確信する。

 自分が手に入れたものや占有したものについて人間には責任がある。「我がもの」だと主張、表明することはそれに対しての無限の責任を背負うという宣言となる。それを行った瞬間、人は「我がもの」の行く末や顛末に常に気を配らなければならない。獲得や所有という概念それ自体が実は人間にとっての現実や森羅万象に対する浅薄な誤謬でしかないが、それでもそれらを抱くときその人には責任が生じ、それにかかずらわなければならなくなる。

 己の人生が自身に因ると主張する者のみが人生に責任を負うべきだ。それは良い悪いといった話ではなく、そうしたいものだけがそうすればいい。それをすべき人間はきっと恵まれた幸福な人種なのだろう。そういう類いの人間に対してそうでない人間の想像など届くはずもないし、また慮る必要など一切ありはしない。

 私は「私の人生」が私のものではないことを知っている。自分の意思、願い、思いなどとは全く無関係に展開される人生なるものと自身を一体化しない時、私はそれをただ観察する。そこには何の不平不満や被害者意識、失意や絶望、後悔や無念も生じない。私の生は私のものではないのだから、特別な感情などそもそも抱くことができない。