他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

艱難汝を玉にする、なんて

 人は生ある限り苦しみから逃れることはない。生老病死をはじめとしたありとあらゆる苦が人間をどんな瞬間においても責め苛む。私たちはそれらの一切から遠ざかろうとするがそれらは執拗に私たちに追いすがり、我々の命が尽き果てるまで延々苦しめることだろう。
 そして私たちは苦しみから救われたいと漠然と願う。辛いことや嫌なことが自身の人生から取り払われ、歓喜や愉悦だけを感じてただ楽しく生きてみたいと口先だけは言い、また頭の中でも念じたりはする。またそれは人としての当然の願望であると世間的にも承認されていることでもあるので、私達は臆面もなくそれを口に出したり妄想したりはする。
 しかし、それは本心ではない。そのような私たちの願いは所詮は意識の表層の上辺だけの望みにすぎない。安逸や平穏への探求というのは人間が表向きに抱く願望でしかなく、我々の意識の深いところではそれとは全く逆の本願が秘められており、それは明け透けに語られることは極めて稀である。
 実のところ、私たちは本能や無意識の次元においては常に苦しみを渇望している。安楽や官能、平穏無事や天下泰平などは人間の本当の望みではない。仮にそれらを万人が心底希求していたとしたら、この世は全く別の様相を呈しているはずだ。少なくとも我が国においては、楽のみを第一義とするような生き方は礼賛されていない。忍耐や屈従とは無縁で、ただ安楽に遊興だけに耽溺するだけの遊民が褒めそやされたり尊ばれたりしたためしがあっただろうか。
 世間や社会が苦に満ちているのは単に我々がそう望んだからに他ならない。私たちが美徳とするものは専ら、懊悩や悲嘆、痛みや苦しみである。それらを手放したり遠ざけたりすることを私たちは明確な形で表明しないが間違っていると漠然と考える。痛苦と完全に無関係な人生を心の何処かでは好ましいと思うどころか憎んですらいるのではないだろうか。
 人間が抱えている問題はどんな苦しみを被っているかではなく、それを望んでいることを知らないという一事に尽きる。苦しみたくない、楽になりたいと思考や意識の表面だけでは夢想しながらも、胸中の内奥ではそれと正反対の苦痛や煩悶への憧憬や執着が根深く渦を巻いている。苦のない人生を人は望んでいるという前提が大間違いであることを私たちはまず自覚する必要がある。

 

 一般的に人間は、なぜか苦しみから避けたがるということにされている。あらゆるメディアで喧伝されている人間の願望や希求に関する言説はもちろん、直に対面して言葉を交わす人々の口から出る言葉でさえ、楽をしたいだとか苦労は嫌だとかいった文句ばかりがしきりに聞こえてくる。私にはこれが甚だ不可思議に思えてならない。
 人間が不幸を忌避し、幸福を追求しているなどとは大嘘であるのは先に述べたとおりである。私たちが現実の日常生活で本当に苦労を厭い、苦痛を倦んでいるならば、本当にそれを実行に移して実生活に反映させるものがもっと多くいても良いはずだ。しかし我々がよく知っているように、私たちは顔をしかめて本意でないことに耐え忍び、ただ悲苦の念に首まで浸かりきって人生を浪費しているではないか。

 人は苦を避け楽を求めるというのは大きな誤解である。人間は自身が何者であるかを明確に自覚するために苦しみや悲しみを必要とする。だから自分の生涯において被った数多の嫌な思い出というのは我々にとっての己を定義付け意味付けるための装飾品のような機能を持っているといえる。だから私たちは好ましくない記憶を後生大事に胸のうちにしまい続けるのだ。
 つまり、私たちは幸せより不幸せを好んでいる。仮に弱者や被害者といった屈辱的な立場に甘んじることになったとしても、私たちは自分が何者であるかをはっきりとさせたい。自分が無意味で無意義な存在かもしれないという不安や恐怖に脅かされるよりは、理不尽を被りながら惨めな悲劇の主人公として自身の役どころを確信する方が、我々にとっては気が楽で快感ですらある。
 翻って、私たちは自分以外の他者が被る不幸や苦労を尊んでもいる。愉快に安穏と世の中を渡り歩く人間よりも、苦心に苦心を重ね呻吟しながら辛うじて生きている人間の方を一般的に人は応援したくなる。この二者のどちらを好ましく思い肩入れしたいと感じるかは、私たちが自他の別なく世の中の苦というものをどう見做しているかを示す一つの例である。
 また、映画や小説などに代表される私たちが消費するストーリー性のある娯楽は、どんな形のものであれ葛藤や対立を賛美している。山場もなく敵対する存在も登場しないというのはストーリーテリングの都合上あり得ない。ドラマ性のあるコンテンツを私たちが享受し消費するとき、劇中の人物の身に起こるあらゆる困難や悲劇を私たちは面白がっているということは忘れられがちであるが否定のしようがない。
 だが、創作上の絵空事は現実と無関係ではなく、それは私たちの本質を象徴的に表す。スクリーンやディスプレイの向こう側で起こっている出来事や事件は現実の世界と完全に無関係ではない。フィクションやファンタジーの世界で重視されているものは現実においても多くの場合は重きを置かれる。そしてそれが苦しみや悲しみなどのネガティブな情動や情緒とそれに関連付けられる一切だとしたならば、その価値観や体系は現実の世界にも適応される。
 フィクションにおけるあらゆる描写は実在する人間たちの本音であり本性である。悲劇が珍重されるのは舞台の上や画面の中だけではなく、実社会や我々一人一人の人生においても同じだ。痛みや憂い、怒りや悲しみといった人間を苦しめるはずの情動がエンターテインメントの世界ではいつも不可欠なものだというのは私たちにとって看過できない事実だ。

 

 架空のキャラクターたちと同じく、私たちの人生も葛藤や対立が満ち満ちている。そしてその現実における実人生における劇的な苦しみは、フィクションにおいてそうであるように私たちにとっては何であれ意義深く値千金だ。そんな私たちが幸福を希求しているなどと宣うのはなんという皮肉だろうか。
 悩み苦しむ架空の人物たちの姿は、そのまま私たちにとっても奨励される、あるべき姿でもある。私たちにとって辛い生涯を送ることは素晴らしいことだ。さらに言えば、我々は苦しまなければならない。それを厭い避けるのは道理に反しているし、人道からも外れる愚行に他ならない。私たちは本心ではこのように考えている。
 我々はフィクションに倣い現実の社会を形づくり、その中で生きている。寓話や娯楽作品に登場する登場人物が艱難辛苦を乗り越えた果てにある勝利を掴み取り、自身の存在意義や値打ちを証明するように、私たち個々人の人生もそれを模倣することが是とされる。苦難の道を歩む物語の主人公たちの振る舞いが、我々にとって実践して当然な生き方の雛形となる。そして私たちはそうでない生き方を腹の底では軽視し、侮蔑さえするようになる。
 今や人であることと苦しむことは不二であり同義だ。この段になって私たちは、耐え難きを耐え忍び難きを偲ぶ社会に耽溺してしまう。そして苦しんで生きることと人間であることは完全に同一視される。
 最早万が一にでも苦しみから解かれるようなことがあれば、人は人間ではなくなる。人間であることの最低条件は苦しみへの我慢と忍従である。ただひたらすらそれに入り浸ってはじめて人間は人間である。にもかかわらず、この我慢大会と化した火宅から逃げ出そうなどと考える不届き者は人非人の烙印を押されてしかるべきなのだ。
 苦しみを倦んでそれを厭い、それから脱することを本当に腹の底から希うなら、私たちは人非人になる覚悟を持たなければならない。少なくとも無辜の市民として生涯を完遂することなど望むべくもないということだけは肝に銘じなければならない。

 なぜなら、苦しみは人間性そのものなのだから。苦しみから開放される瞬間、私は人間を辞めることなるだろう。それを是とするか否とするか。少なくとも、人でありながら苦を回避する道などは絶対に有り得ないということだけは確かであり、そのことだけでも心に刻んでおいても損はない。