書き捨て山

雑記、雑感その他

幸か不幸か

 幸福のパターンは少ない。自他ともに幸福であると認めざるをえない完全無欠な人生を送る人物が仮にもし存在するとしたら、それが複数人いたとしても彼らの生活や生き方にはそれほど多くの違いはないだろう。どんな時代やどんな地域においても幸せの形や内容には大きな相違はないというのは例を挙げるまでもなく自明である。
 逆に不幸の様相は人の数だけあるだろう。同時代の同じ町で生きている人間に限って焦点を当てたとしても、彼らが背負っている不幸せの仔細について聞き出せば、そのヴァリエーションの多様さに恐らく圧倒されるだろう。どんな社会的な階層にも別々の苦しみや悲しみがあり、個々人が異なる不幸を味わっているだろう。

 幸福や至福はありきたりのありふれた営みの中にある。それは有り体に言えば平凡であり取るに足らない日常の繰り返しにすぎない。それは凡庸であり通俗的な無個性さへの埋没である。一言で言い表すならそれらは単純に面白みがなくつまらない。

 翻って、不幸や不遇は何であれ劇的であり刺激的である。対立や葛藤、理不尽や不条理の中でそれらを被る受難者は悩み苦しみを被り、憂いや恐れを抱かざるを得ない。そんな人間の振る舞いや生き様はドラマ性に満ち溢れているし、激情を掻き立てられ息をつく暇も与えないほどだ。
 また、幸せは個人の何たるかを定めてはくれない。特別でも特異でもなく、ありふれて何の変哲もない日々が展開される暮らしの中に置かれた人間は、どうやって自分が何者かを知ればいいのだろうか。一切の障害も設けられず、全てが粛々と恙無く執り行われるだけの世界の中に個性や独自性といったものは存在するはずもない。
 その点、不幸せこそが私たちに己の何たるかを教えてくれる。自身を悩ませる敵対者の存在は常に渦中にいる者を悩ませる。環境などの外的な要因の全てが悪い方に向かい、不利益や不運を被る人間を苦しめ続ける。そんな受難の渦中にある者は、自分が何故、何のために苦渋や辛酸を嘗めねければならないのかと考える。その問いかけや探求の道程において、私たちは自分がどんな存在なのかを明確に定義し、己自身に確信を抱けるようになる。
 
 
 私の不幸は私だけが占有している。私が被ったあらゆる苦しい思いや痛ましい追憶は分かち合ったり共有したりすることは絶対できない。私の不利益、私の損害、私の艱難……。それらの全てはオリジナルな体験であり、代替することができない代物だ。
 私と全く同じ不遇や理不尽を味わった者など存在しないと断言できる。非常に大雑把に捉えれば似たような苦労や辛苦を被った人間は当然大勢いるかもしれない。しかし、それは大まかに類似しているというだけで本質は全く異なるだろう。不幸とは客観的な事実の羅列ではなく、主観的な体験だからだ。

 独自かつ奇異な経験や体験としての不幸の蓄積が私にとっての記憶や思い出となる。そしてそれに基づき私の人格や精神が造形される。周りの人間にされた手痛い仕打ちで痛めつけられたこと、メディアを通して流布された身勝手で無遠慮な言説を通じて傷つけられたこと、実社会で金銭や労力を搾取された屈辱的な思い……。そういった類いの不幸せな追憶が無数に私の中に溜め込まれ、私がどんな人生を歩んだどんな人間かを定める。
 人間の脳は辛いことや不快に思ったことを鮮明に記憶に残すという。これまで生きてきて、不幸や悲劇には分類されない出来事も多数浴してきたはずだろうが、そういったことに対しては殆ど覚えていない。私たちは脳機能の性質から見ても幸福や幸運よりも不幸や不運に着目するようになっているようだ。
 事情はどうあれ、改めて考えてみれば私は不幸せの権化のような存在だ。生まれてきてから今日に至るまでの間に溜め込んだ辛かったことや嫌なことの集合体のような人間が他ならぬ自分であるという事実は無視できない。私の本質は不幸せそのものであった。痛苦や悲苦の念こそが私が私を成す根源で、肉体や精神さえそれよりも優先順位は下となる。
 
 不幸の性質が人それぞれの個性を表していると言える。私が被った不遇などはほんの一例に過ぎない。世間には無数の人間が居て、それぞれの人間に個性があり、別個の内容や性質の不幸せがある。ある人物の人間性について語ったり分析したりする際、彼がどんな不幸を背負って生きているかが焦点になるだろう。
 不幸の数だけ個人が存在する。とある人が被った損失や被害、あなたが切り抜けた艱難辛苦、私が悪辣な加害者によって味わわされた災厄などのそれぞれが各人の気性や性質を表す。その人間がどういう存在なのかは当人が被った痛みや苦しみ、悲しみや精神的な葛藤などの詳細が表す。
 さらに言えば、経験した不幸の内容によって人は自他を区別する。先に述べたように、私が味わった不幸は私個人の、私固有のものである。それを完全にコピーした体験をした人間はこの世にはいない。したがって、自己とそれ以外を分け隔てるものは個人的な記憶、とりわけ不幸せな出来事に関する追憶ということになる。
 私が被った憂き目や災難のすべてが私を示す勲章だと言える。己が何者であるか、自分自身がどれだけの値打ちや存在意義があるかについてそれらを参照するだけでいい。受難の数々が私を作り上げ、その一つ一つの詳細が私を定義づける。私たち人間は血や肉である前に不幸や苦悩なのだ。

 
 人は自身について確信していたい。自分にどれだけの値打ちがあり、どれほど貴重で大切な存在なのかをはっきりと自覚したがる。私たちは自分自身の正体や詳細について知ることに生涯の多くの時間や労力を費やす。それにはそれだけの価値があるのだろう。
 自分を定義づけられるなら、人は喜んで受難に浴する。苦しんだり悲しんだりすることで自分がどういった存在か明らかになり自身でも納得ができるなら、人はどんなことにでも耐えられる。義のために命を投げ捨てることができる人間の心理の背景にはこのような事情がある。人は自己を確立して大きな意義を自らに付与できるなら進んで死地に赴くことができる。
 正体不明の匿名な存在でいるよりも、ともすれば人間は敗者や被害者であることで妥協する。そのために人間は自身のために不幸・不遇・不運を設定して己の存在を盤石なものにする。たとえ悲劇の主人公になって破滅したとしても、人間は己が何者なのかと頭を悩ませるよりはその方がマシだと考える。
 なぜなら、不幸な人間はユニークでありスペシャルだからだ。受難に甘んじて苦しんでいるだけでも特別な存在になれると私たちは確信している。だからこそ私たちはフィクションにおいて架空の人物が苦悩し葛藤する様子を鑑賞したがり、実在する人物が醜聞で失墜するところを面白がって見物する。いわんや自分自身については、悲惨や苦難を一心に受ける憐れむべき被害者だと見做したいのが人の情というものだ。
 その一方で幸福な人間、ないし少なくとも不幸でない者は押しなべて凡庸だ。そこには一切のドラマ性がない。言うなれば至福の中に生きる人はストーリーという地獄から抜け出してしまった存在であるとも言えるかもしれない。創作でもドラマの結末がハッピーエンドだとしてもその過程において主人公は必ず対立や葛藤、試練や障害を通過する義務や宿命を追っている。考えてみればそれと同じことなのかもしれない。

 静寂や至福などで名状される幸せの在処は、ドラマやストーリー、スペクタクルや大立ち回りなどとは全く無縁な境地だ。そこに至る道がたとえあったとして、そこに達したとしても恐らく人はそこでのあまりの退屈さに無聊を託つようになるだろう。冒頭で触れたように幸せとはありふれたもの、論ずるに値しないつまらない愚物でしかないのだから。

 私たちはそれを踏まえた上でも不幸を厭い幸福を追求するだろうか。その詳細について知悉してもなおその道を歩もうとするのは相当な物好き、奇人変人だろう。人は苦しんででも手持ち無沙汰を紛らわそうとする。そうでもしなければ私たちの生は間が持たない。

 私たちはあくびをするより血反吐を吐きたく、物憂げに飽き飽きと暮らすより命からがらただひたすら汲々として生きたいのだ。人間の被虐的な本願や自己憐憫への渇望はもっと注目されるべきなのではないだろうか。