書き捨て山

雑記、雑感その他

苦しみと個我

 人間の本能は苦しみを渇望する。静寂の中で至福に満ちた状態を維持して生きていたいなどと、私たちは毛ほども考えていない。私たちは喧騒や猥雑、敵対や闘争をどんな瞬間にも絶え間なく渇望している。人間が望むのは不安や恐怖、葛藤や苦悩といったネガティブな感情であって、ポジティブで安穏とした精神状態は人間の腹の底からの願望とは全く対立している。
 誰もが幸せを望んでいるなどと考えるのは人と言う種への誤解だ。私にはどういう理由によるものなのかは全く見当もつかないが、何故か世間一般の通念においてはそういった建前がまるで自明で当然な真理であるかのように流布されている。私たちは一人の例外もなく幸せな生涯を送りたいと思っており、不幸せを遠ざけたいと願っているのだと。そのような誤謬がまかり通る社会に対して私は大変不可解さを感じる。
 私たちは千辛万苦の中にしか生を見出すことができない。私たちが個別の人格や精神、心を持った個人として存在できる根拠は苦しみや悲しみの記憶や体験による。余人の身の上話は苦労話や愚痴、不平不満などがその大半を占める。これは人間というものがどのようにして自身を認識し定義しているかよく分かる一例だろう。
 言わば、人の道は茨の道だ。努力や苦労なくして私たちの人生を語ることは不可能だ。人生のあらゆる局面において私たちは自分が支払った労力や金銭などの代償と、それがどれほど辛く苦しく、精神的に負荷がかかる出来事であったかを鮮明に記憶にとどめる。そしてそれを事あるごとに振り返り生涯の一コマと見なす。さらに、自分自身を指し示す要素として苦難や災難にまつわる体験を逐一意味付けたり定義付けたりもする。
 人間であることと苦痛を被ることは不可分である。私たちは苦しんだ経験によって己が何者かを思い知り、その経験を掛け替えのないものとして大切に胸中にしまい込む。嘆きや悲しみに暮れた日々。憤怒や憎悪の念に囚われた場面。遭わされた憂き目の内容についてのディティール。それらのどれもが私たちにとって己の生涯を語る上で決して欠くことができない大切で貴重な思い出となっている。
 従って、苦しみからの逃避は人間性の否定だと言える。辛労、苦痛、煩慮、憂愁どのような言葉で表しても詰まるところ全ては全てが苦である。それらの情念や心緒を「よくない」の一語で断ずるの言説が仮にあったとしたら、私たちはそこに一切の人間味を感じないだろう。人であることと苦しみことは完全に不二だといい切って良い。
 


 私は他人や世間からこれまで被ってきた仕打ちや憂き目を忘れらない。両親や親族を筆頭として学校の教師や仕事場で接する他の従業員、ひいてはすれ違うだけの赤の他人に至るまで、あらゆる数多の人間が私に対して怨憎会苦をもたらした。一期一会の出会いの一つ一つのどれもが私にとっては苦痛であり苦難・試練以外の何物でもなかった。それらの全部が私の人生を語る上で無視できない重要なイベントとなっている。
 嫌な思い出や辛かった経験の全てが私を象徴し、表現する。あの時あんな思いをさせられた、その時はこれほどの屈辱や不義理を味わわされた、そんな嫌な思い出が私の人生の節目節目を特徴づける。その時々に遭わされた惨禍とそれによって惹起された被害者意識や自己憐憫の念が、私がどれほど哀れまれるべき存在かを物語るだろう。
 人間を個人として形づくる要素とは他ならぬ苦しみだ。自己を詳細に規定し、彼我との峻別を明らかにする為に必要なのは記憶であり、それが楽しいものや喜ばしいものであることは稀である。私たちは苦しみや悲しみに関する事柄を鮮明に記憶する。

 それは戸籍や肉体、思想や倫理などよりも強固に私たちを定義する。私たちは自己を疑いようがないほど明確に認識したい。それによって人は途方もなく満たされる。自分が何者かをはっきりと自覚できれば、それはどんな快楽にも勝る。そしてそれは辛く苦しい思い、凄惨で汚辱にまみれた体験に頼るのが最も安易で簡便な手段となる。

 

 被った苦しみの一つ一つが私たちのアイデンティティと結びつく。苦しんだ記憶の蓄積が私たちをそのまま表す。もっとも、「私が苦しむ」という言い方は便宜上の表現にすぎない。私とは苦しみそれ自体であり、苦しみなくして私は存在することはない。人間の自己同一性には、嫌なことや辛い目といったものは不可欠な因子だと言える。
 思想や道徳、倫理よりもどんな苦しみに依拠するかで個人は規定される。損得や善悪といったものも、それに比べれば塵芥に等しい。自分がどんな存在であるかが、人間にとっては第一義にして最重要の根本義だ。自分自身を指し示す目印こそが人間にとっての最も望むべきものであり、そしてそれは他でもない苦しみなのだ。
 私たちはそれに終生固執する。自分が何者であるか自覚し、確信し、それに依拠することを覚えたら、それを捨て去る選択を通常私たちはしないだろう。正体不明の名無しの権兵衛、無意味・無定義・無意義な「なにか」で在り続ける心もとなさに耐えおおせる者は決して多くはない。そんな無用な骨折りより、人は安易な道に逃げたがる。即ち苦しみ続ける被害者として自分を設定し続ける。
 口や態度では苦労や不幸を拒む素振りをしても、それは所詮上辺だけのものでしかない。私たちは間断なく苦悩し、尽きることなく怒り憎み、底知れない絶望に打ちひしがれ、身を切られ胸を引き裂かれるような目に遭うことを本音では心底乞い願っている。それが苦しみを引き起こして私たちをより一層悲劇的にし、私たち個々人の存在を一段と際立たせるのだから。


 逆に、苦しみがなければ人は自己の細部を理解することも感取することもない。不足や欠乏から人は自身が何を求めているかを知る。また、不本意を無理強いされたときに人は本音や本心・己の本願が分かるようになる。
 さらに言えば、ある人間が苦しみから解かれるなら、その人はもうその人ではありえない。彼が彼のまま苦難や懊悩から解放されることなど有り得ない。何故ならこれまで重ね重ね書き連ねてきたとおり、苦しみこそが人間を人間、個人を個人たらしめるからだ。一人の人間が苦しむとき、その人は苦と同一で不可分な存在となっている。人間が苦しむのではなく、苦しみ自体が我々の本体なのだ。
 それは、人という種が永遠に度し難い存在ということを意味している。苦しみを一切受けない幸福な人間など存在し得ない。ある者が本当に言葉そのままの意味で幸せなら、彼は人であることを放棄していると言っても過言ではない。人間の根本にして本質たる苦から解かれた存在はそれだけで人間ではない何かだと言っていい。
 一個の人間もしくは個人であり続ける限り、私たちは永劫救われないだろう。人としての生は苦しみに満ち、有限で不可能に直面することばかりだ。そんな現実や実相から目を背けて自分が幸福だと思いこむことも可能ではある。しかしそれはやがて覚める夢でしかなく、遅かれ早かれ私たちは己の起源にして本性たる苦に対峙することになる。これは何人たりとも避けることはできない。
 逆に言えば、苦がなくれなれば私は消え去る。個我への執着、静的な個人であり続けることへの我執を捨て去れば、その瞬間に苦しみは消失する。苦しみの終わりは個人の終焉である。個我を存続させようと試みる限り私たちは死ぬまで、ともすれば死んでも苦しみとともにあり続けるだろう。
 つまり本当に腹の底から苦しみを厭うなら、私たちは己自身であることに固執すべきでないということになる。苦は人の個としての側面を強め、個として存在しようとすれば人の苦は大きくなる。逆に一個人、一個体としてこの世でどう遇されるかにこだわらなくなれば、その瞬間に私たちが被る一切の苦しみは幻でしかなくなるだろう。