書き捨て山

雑記、雑感その他

足下そぼ濡れる度に

 朝、家の外から聞こえる雨音を聞くだけで嫌な気分になる。軒先から滴る水音が聞こえ、早朝にも関わらず陽の光が差さない薄暗い窓辺が目覚めたばかりの視界に入り込むと、それだけでその日の始まりは憂鬱なものとなる。寝床の脇にあるパソコンを操作して気象情報を調べ、その日一日の天気予報の詳細を確認してがっくりと肩を落とす。

 それというのも私には、サンダルを除いて一足の靴しかない。雨が降っている最中に職場や目的地などへ向かって足を運べば、道中で必ず私の足は雨に濡れてしまう。一度靴が濡れたらそれを乾かすのに時間がかかるが、一足しかないから乾ききっていない靴を次の日も再び履かなければならなくなる。だから一度でも靴が濡れればそれだけで大事となる。

 そのただ一足の靴は3000円もしない安物で、既に穴だらけだ。それは通販で去年に購入したスニーカーで、ゴムでできた靴底はところどころ剥がれてしまっている。靴のつま先付近の部分は、左右の靴のそれぞれに裂け目や切れ目が入ってしまっている。そこからたとえ小雨による僅かな水量でも多分な水が染み込むので私の足は雨でしとどになる。

 雨が降る度、私の足元は否が応でも濡れる。休日なら外出を控えるかサンダルを代わりに履いて外に出れば済む。問題は仕事がある日やTPOの都合上サンダルが履けない場合だ。そういった日に雨が降り出したらボロボロの靴を履かざるを得ず、当然私の足は無事では済まなくなる。

 かくして穴だらけの靴の中に水が入り込み、つま先を中心に足が濡れた状態のまま一日を過ごさなければならなくなる。これがどうしても不愉快でならないが、それを予防する手段が一切ない。だから私は雨が降りなおかつボロ靴を履いて外出しなければならない日には、ひたすら消沈する他はない。

 靴を新調することも買い換えることも私には容易ではない。必要最低限の生活費と年金やら税金の支払いだけで、私のわずかばかりの稼ぎの大半は失われるからだ。私はたいへん貧しく、収入を増やす手段も現状持ち合わせていない。よってこの悪状況を改善する余地が全く無い。私は無為無策で、ただ雨水によって害されるつま先のことを煩いながら、足のみに飽き足らず目をも涙で濡らすのだった。

 

 

 ところで、人を値踏みする時は足元を見れば良いという話がある。その人物がどの社会的な階層に属し、どんな生活習慣を持ち、どういった精神状態でいるかどうか推し量る手段として世に広く知られている方法である。

 これは靴に金をかけられるかどうかで人間の価値がある程度分かるということなのだろう。身も蓋もない言い方をするなら、値踏みする相手が身だしなみに気を配れる程度の金があるかどうかを靴を見て判断するというわけだ。

 私が買える靴はせいぜい3000円程度のものが精一杯だ。だから極稀に靴を買い換える機会があったとしても、結局は安物の靴を履くことになる。そしてそれは言うまでもなく粗悪な品物でしかないからやはり2,3ヶ月も履けば何処かに支障が出てくる。ところどころ擦り切れようが裂け目ができようが靴としての体をなしていさえすれば、私は生来の貧乏性のためそれを使い続けることになり、結局はまた雨に怯えるハメになる。

 そして冒頭に書いたような有様となる。同じことが一定のサイクルでもう何度も繰り返された。粗悪品の靴を買い、それを履き潰しても使い続ける。穴ができてもお構いなしで、そのまましばらく経って雨が降るとうろたえる。履けないほど靴が傷む段になってようやく靴を新調するが、それが例によって例の如くまた安物でそれがまた痛み……。

 

 今の靴はもう半年は履いている。メーカーも全くの無名で中国製の廉価な靴だった。改めて思い起こせば、ずいぶん長い間持ちこたえたと思う反面、もういい加減買い替え時だという気もする。しかし金銭的に非常に苦しい状況にあるため、私には今ひとつ靴屋に足を踏み入れる勇気が足りないといったところだ。

 裂け目や穴だらけでゴミ同然の靴を履く恥や足を濡らしたまま不快指数を上昇させたままの状態で居続ける苦痛は、我慢できないこともない。子供の頃から私は我慢や忍耐を常としてきた。私は屈従や堅忍を宿命付けられてこの世に産み落とされ、それに則って躾や教育を受けてきた。靴だの足だのといった類いの問題それ自体を苦に思うほど堪え性のない男ではない。

 しかし耐え難いのは、雨に降られる度に自分の貧しさを思い知らされることだ。とどのつまり、金がないせいで悲惨を被っているという事実は覆しようがない。不快や苦痛には耐性がある私であっても、惨めさには容易く屈する。自分の価値のなさを客観的に認めるしかないとき、さすがの私と言えども安穏とはしていられなくなる。

 雨が降らなければ、私は己の貧苦を忘れられる。自分の社会的な地位や経済状況について自覚することなく生活することが可能となる。私にとって雨は常に剥き出しの現実、言い繕いようのない苦境を突きつける凶事だ。雨が降って足を濡らす者は多いだろうが、それによって心を痛める人間はそう多くはないだろう。雨に足元が濡れる度に屈辱を味わうのは私固有の性向として数えても良いのかもしれない。

 

 

  私は靴一足新調できない、惨めで浅ましい人間にすぎない。雨足を目のあたりにする度に私はそのことを痛感する。雨が降る街角、そこには薄汚い靴を履いて世の中を駆けずり回る卑賎な身分の惨めな田舎出の救いがたい男がただ一人あるばかりであった。もしそれが自分ではなかったなら、私はそれを見たときに嘲笑し軽侮の念を向けるのだろうか。 

 濡れた足下の冷たさが、私を心底寒々しくさせる。雨水が打ち付けるコンクリート固めの歩道を数分歩くだけで靴に水がしみ込む。一歩踏みしめる度、水気を含んだ靴から空気が抜ける嫌な音がする。それが私の窮状を物語るだけでなく、貧苦から脱することができない私の能力の低さをも表しているのであった。

 若い時分の貧乏はまだ、絵にもなるし笑い話にもできる。将来の明るい兆しや不確定な未来への希望といったものを、若いという一事を根拠にして抱くことができる。それがたとえ幻想にすぎないとしても、かつての私には十二分に慰めであったように思う。斜に構えたり自身の先行きを悲観したりする素振りをして見せても、それは所詮戯れでしかなかった。いつか何とかなるなどと、愚かにも思い込むことができた。

 だが、歳を重ねる毎にことのシリアスさは増していく。もう金欠はネタや笑い事では済まされない。月々の実入りや預金残高の少なさが私を延々と責め苛むようになっていく。金がかかるようなことは全て諦めなければならない私にマトモな人生を送る選択肢はもうない。生活費に加え、年金や税金を払って辛うじて生活が破綻しないギリギリの暮らしである。それは最早死んでいないだけで生きているとは言い難いのではないだろうか。

 靴一足、買うのを渋る卑しさ。問題は深刻であり重大である。人並みに食べることもままならず、遊びなど以ての外だ。そんな人間が結婚したり恋愛したりするなど到底不可能である。ちなみに近ごろは、実家の両親からは結婚の催促までされるようになった。貧困の只中にあってはこれが一番こたえる。身だしなみ一つ整えられない人間が一体どうやって結婚しろというのだろうか。

 不足や欠乏に直面し行き詰まったとき、人は己の下らなさに打ちのめされる。靴も買えず汚い身なりのまま孤独に人生を空費し続ける虚しさは耐えられない。目下の自分に一体どんな存在価値があると言えるのだろうか。親がかけてくる電話で恋愛や結婚を急かされながら、玄関に転がったボロボロの靴に視線を投げる。雨に降られながらあんなものを履いて足を水浸しにしている男に、そんな人並みの人生など望むべくもないのにと思う。