壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

一人相撲

 人間は他者について本当の意味で知ることはない。どれだけ親しく接している人物に対しても、その人について私たちが知ることができるであろうことは全体のほんの僅かでしかない。親兄弟でも同じだ。誰であれ人間は無限の諸相を有していおり、それらの一つを垣間見ただけでその人物を知った気になるのは全くもって正しくない。

 他人に限らず、私たちの知覚や認識は全て主観においてのものでしかない。客観的に、という表現が世間一般においてはよく使われはするが、人間が人間である以上、何を知ろうが分析しようが言葉そのままの意味で客観的な見地など私たちにはどう足掻いても得られようがない。これはあらゆる一切について言えることであり、ましてや自分以外の個体としての他人については言うに及ばすだ。

 自分自身に対してすら、私たちは完全には知悉し得ない。他人の気持ちを一から十まで把握することは無論不可能ではあるが、己のことならと思うのは人情だろう。だが、私たちは自己についてもやはり全てを正確に捉えることはできない。自分の中の思わぬ側面をふとしたきっかけで思い知らされることが人生にはままある。

 つまり人間は終生、生涯を通して何一つ客観的に知ることができない。あらゆる出来事や物事に加え、親しい人物はおろか、自分自身についても確かなことは何一つ知り得ないということを私たちは肝に銘じなければならない。一見明白で誰の目にも明らかななように思えても、人間の認知と言うものへの限界や不確かさというのはいかなる場合においても留意しべきだ。

 そのように考えれば、日常的に接するあらゆる事物は不可知のベールに覆われている。どのような凡庸さや卑俗さの中にも、絶対不可侵な何か、神秘や神聖さといったものが遍く潜んでいる。私たちは生まれてから死ぬまでの間、厳密な意味合いにおいて何も知ることはできないが、だからこそ私たちは世俗的な生活の中にも思わぬ何かを感じ取ったりもできるのかもしれない。

 「私はそれを知っている」と断ずるのはそれ自体が思い上がりだ。そういった誤謬とは正反対の警句を常に自らに戒めなければならない。「私は何も知り得ない」のだと。この世界は人間にとってくまなく永遠のフロンティアであり、そこで私たちは何もすることなく人生を送り、ついにはそれを閉じる。それはどのような知識でもっても覆すことはできず、またそれを感得することこそが叡智であるとも言えるのかもしれない。

 

 

 ところで、私は他者について常に思い悩んできた。私は物心が付いたときから対人関係において重大な問題を抱えていた。学校での立ち居振る舞いは勿論のこと、家の中での家族関係や親戚づきあいにおいてすら全くと言っていいほど円滑かつ良好に関係を築くことができなかった。幼いころの私にとって、誰も彼もが自分を責めたり苦しめたりする悪者にしか思えなかった、一人の例外なくだ。

 子供の頃からずっと、私は世間は悪意に満ち溢れていると考えてきた。私は他人の不可解さや計り知れなさを甚だ奇妙かつ不気味に思った。得体の知れない他人の心は私にとって全く掴みどころがなく、表情や言葉尻にわずかに現れる些細な意地の悪さやわずかばかりの嘲りや貶すような意図を匂わせる仕草が私にはたまらなくおぞましく思えた。

 私は他人が自分に対して抱く害意を自明のものとして捉えていた。私は他人の意図には鈍感な方であったが、自身のそういった方面の能力の低さは自覚していた。そして、それについての自らの能力の低さをもってしても、言葉や態度で他者の軽蔑や敵意を察することができるという一事から私は、自分以外の全ての人間が等しく腹の底に秘めている恐るべき陰険で邪悪な内面を窺い知ったような気になった。

 どんな時でも、悪い奴らが自分に危害を加えようとしているのだと私は信じて疑わなかった。自分がほんの僅かでも弱みを見せたり攻撃材料を与えれば、立ちどころに邪悪な他人どもが私を傷つけ、私の心や精神に打撃を加えようとするのだと常に身構えて戦慄するばかりであった。

 

 しかし、それは誤りであった。私が言う誤りとは「実はみんないい人たちばかりでした」ということではなく、自分自身の内側における他人の悪意や害意への確信に対してのものである。

 確かに私に対して悪意を持って接する者はいるかもしれない。私と利害関係が対立していたり、私を気に食わない虫が好かない奴だと見做して何らかの制裁を企てようと目論見、実際に私を直接攻撃したり間接的に私に不利益や損害、危害の類いを与えようと何らかの行動を実行に移した、もしくは移している人間はいるだろう。

 しかし、他人の真意や本意を知る術など私にはなかった。仮に先に述べたような腹づもりの者どもが実在したとしても、人の心が永遠にブラックボックスであるという前提を踏まえて万人に対して向き合うとき、彼ら彼女らの内面の本心・本性といったものの仔細など問題にはならないだろう。善意や悪意どころか何となくで為される言動であったとしても全て同じだ。知りようがないならそれはそれがどんな実相であれ等価であると言える。

 知り得ないことを分かりきったこととするのは愚かなことだ。その傲慢さや尊大さがとてつもない誤謬を生み出す。私自身のことを例にとって述べてみたが、現実には人間というものは特定の個体においてその素性が善性や悪性のどちらかに振り切れているものではない。また個人が逐一為す言動についても故意的なものも無為な振る舞いや物腰によるものもあるだろう。対峙する全ての人間はそれぞれ個々人の中に善悪両方の性質を備えているし、そんな人々の一挙手一投足はその時々に応じて意識的であったり無意識的であったりする。要するに私は他者については確かなことは何も知らないのだ。

 

 

 加えて、他者やあらゆる事物、事象に至るまで実は己の内面の投影にすぎない。これは心理学的な定説であり人口に膾炙した話だろう。自分の本心にある願望や恐怖を始めとしたあらゆる情念、自身が具有している一切の性質を人間は自分の外側にある森羅万象に人間は仮託する。

 人間にとっての万物は未知なる存在に他ならない。明々白々と見え、聞こえ、触れられ、分かるように感じられるどんなものであれ、それは個人的な愚見・愚考の域を脱することはない。どれだけ身近にあり隅々まで精通しているはずの事柄であっても、自己投影や内心の仮託に基づいた思い込みでしか有り得ない。

 畢竟、他人など己の中で沸き起こる手前勝手な決めつけの集まりでしかない。自分の都合や偏見だけで他者を解釈し、その歪んだ虚像に基いて人を知ったと嘯くのは馬鹿げている。しかもそのでっち上げの虚像は実は本人の内面を表し、自身の内にあるものを吐露しているに過ぎないと来ている。これは最早滑稽という他はない。

 眼前で額を擦り合わせて対峙する者であれ地球の裏側にいる人間であれ、何人たりとも私は彼ら彼女らについて何一つ知ることはない。巡り合うのはあくまで自分の内なる望み、恐れ、認めたくない自己の側面の顕現でしかない。他人と敵対し憎悪するということはそのまま己自身にそれらの念を起こし、ぶつけているだけのことだ。

 言わば私が接触する他者は私にとってのもう一人の自分にすぎない。人間が持ち得る認識や知覚に基づいた主観的な世界観というものは、例えるなら鏡張りの牢獄であり私たちの人生はそこで執り行われる一人相撲でしかない。嬰児や動物は鏡像を自分だと認識できないと言うが、それは私たちにおいても実は当てはまっているのではないだろうか。

 他の人間をダシにして、私たちは死ぬまで一人相撲をする定めを負っている。相撲どころか、自身の胴体から伸びる両の腕を互いに戦わせるような手遊びでしかないかもしれない。鏡の前でそういった奇行に延々と及びながら恐れたり憤ったりしているだけなのが私たちの生涯だとしたら、何とも虚しい心持ちになる。