書き捨て山

雑記、雑感その他

マジ

 何事にもシリアスにならずにいられるなら、人生は遊びとなる。結果も成果も一切機に求めず、意味や意義も価値も全く一個だにせずにただ為すだけなら、どんなに気が楽で楽しいだろうか。万事を遊興や道楽だと捉え、気楽に臨むことができる境地に至ることこそが私の人生における究極的な目標のような気がする。

 だが、実際の生活においてはそれとは全く逆の心持ちで一切を執り行っているのが現状である。些細な事でも真剣かつ深刻、死ぬの生きるのと大騒動を繰り広げている。仕事などにおいては言うに及ばずだ。大したことでもないにもかかわらず、まるで自分が大犯罪でもしでかしたかのような気になってしまう。

 これは私だけの特異な性質ではなく、世間一般の大概の人間にも言えるだろう。と言うよりも、世間や社会においてシリアスな姿勢が正しく礼賛され称揚されているからこそ、私もそういった思想に無批判に倣っているに過ぎない。物心がついたときから延々、親や教師をはじめとした周囲のあらゆる人間が私に対してその手の邪悪な観念を強要してきたからそこ現在の私もストレスフルな人生を送らざるをえない陥穽に嵌まり込んでしまっている。

 私は何かを知ることで自分を変えられると考えてきた。知識や智慧を身につければ見識が広まるだろうし、窮屈で狭量な了見が改まり人生を楽しめるように成るのではないかを思っていた。そして自分なりに様々な情報に触れ、試行錯誤してきた。自身の内に抱え込んできた病的な生き辛さをどうにかして解消しようと様々な試みを行ってきたが、現状それは目に見える形で結実するには至っていない。

 知ることに見切りをつければ次は瞑想だの何だのといったものに耽りだすのはお定まりの傾向なのだろうか。私もその例に漏れず珍妙な座り方で足を痛めながら無理に背筋を伸ばし、両手で無意味な印を組み目を半開きにしてただ呆けるという奇行に及んだ。それは確かにやっている最中は精神が静まったり安楽な気分に慣れたりはしたが、それをすることで生涯全般にあらゆる諸事が万事めでたく解決、大団円という訳にはいかない。

 仏門に入った世捨て人や家の財産を食いつぶすだけの遊び人でもなければ、生活上の苦労や問題といったものとどうしても無縁ではいられない。私は働かなければならなず、生きていくには金が入り用となる。世間を渡って行くには前述したような知識の収集や禅定といった類いのものは大して役に立たないというのが実際のところではないだろうか。

 余暇の時間を割き知識を深めたり瞑想に耽ることはそれに興じている間だけに有効な慰めでしかない。それは一時の気晴らしや現実逃避にすぎず、かかる人生に一貫する居心地の悪さや厭世的な情念を解消する決定打にはなりえない。知識を得たり瞑想を行うことで生涯を通してあらゆる憂いがなくなるなら、人間は悩んだり苦しんだりしないだろう。

 

 

 結局のところ「マジ」だから人間は苦しむ。仕事の成果の多寡やミスの有無に煩悶するのは関わっている業務に対して真剣かつ深刻にならざるをえないからだ。たとえ休日の娯楽であっても、自分の威信や尊厳を賭けた何かをしなければらないとしたら、心中穏やかにそれを執り行うことは難しい。人間は遊びにもマジになってしまう因果ないきものであり、マジになるならその遊びは既に遊びではなくなってしまう。

 知ることやメディテーションにも同じことが言える。それらはたしかに楽しい側面もあるが、シリアスに臨もうと思えば十分苦行足り得る。獲得や達成、所有への渇望を原動力にしてこれらを行えば私たちは苦しみを被ることになる。辛さや苦しさから解かれたいからそれらを始めたにもかかわらず、結局はそれらが苦の源になってしまうのは何とも皮肉な話だ。

 苦しみの原因とはつまるところ欲だ。何かを思い通りにしようとしたり、自分の物だと見做してそれを護持しようとしたりする時に人は苦しい思いをする。そうった苦の背景にある我意を通そうとする執着とは畢竟、「マジな思い」が中心、中核となっている。願望が叶わないというのは苦しみの本質ではなく、その背景にあるシリアスな感情が人間にとっての苦の根源となる。

 思えば、世の中ではマジになるのが人として真っ当で正しいあり方であるという通念が当然のごとくまかり通っている。それがどれだけ私たちを束縛して苦痛をもたらしていることだろう。この忌むべき思想によって私たちは本来なら不必要な辛労を被っているのではないだろうか。それは改めて考えてみれば馬鹿げているとしか言いようがない。

 

 人間がシリアスにならなければならないのはせいぜい生き死にに直結する案件だけだろう。それとは無関係のあらゆる事柄に対して、私達にはシリアスになる義務など本来ない。それがたとえどれだけ有益かつ有効で、有意義で崇高に思えてたとしても、そして現に明白にそうであったとしても、私たちはそれにマジになるべきではない。苦しみたくないのなら。

 できるだけマジにならないことが苦しまずに生きるコツであろう。そしてマジにならなければならない状況は避けるに越したことはない。そういう観点で考えたとき、まず第一に避けなければならないのは貧困だ。

 貧乏は一般的に良くない状態だとされるが、それは偏にそれが深刻さの温床となるからだ。経済的な余裕の無さが日常をシリアスなものにし、人間から精神的な余裕を奪っていく。最終的にそれは悪に帰結するだろう。足りないから誰かから奪わなければならなくなる。そういった動機は人間にあらゆる悪行を行わせる。

 マジ、深刻さというのはとどのつまり悪徳に他ならない。何に対する執着であれ、そのどれもが私たちを等しく苦しめ、追い詰めるだろう。そして苦しむ人は他の誰かも苦しめようと画策する。かくして世の中に苦しみの輪が広がっていき、鬱屈とした殺伐な社会が完成する。

 

 

 人間全部や社会全体がこれから脱するのは不可能だろう。私たちは自分が苦しんでいることは理解できても、その根本的な原因については知ろうとはしない。大抵は仕方がないで済ませるか全く見当違いの解釈をして素っ頓狂な所業に至るかのどちらかだ。無明の闇の中で七転八倒する私たちはほとほと度し難い存在だ。

 マジになるから人間は苦しむ。そしてそれから離れれば一切は単なる遊びとなる。遊ぶように生きることは私にとってはかねてからの本願であった。遊びと苦しみは両立しない。遊興に何らかの苦が伴うなら、そこには何らかのシリアスな感情が秘められているはずだ。逆にシリアスでなければ、金儲けすら遊びになりうる。

 これを成就するためには、あらゆる「ねばならぬ」は根絶されなければならない。財産がなければならない。人に好かれなければならない。価値がなければならない。意味がなければならない。これらの妄念や執着の情が重ね重ね述べるように人生を辛く苦しいものにする。

 そして、苦しむことは何の福徳ももたらさない。苦しみを高尚さや崇高さに捉えるのは私たちが陥りがちな誤謬である。これだけ辛い思いをしたのだから、自分がしたことには何らかの意義があり、いつか何かの報いがあるのだと人は考えたがる。しかしそのような期待は遅かれ早かれ必ずや裏切られることだろう。苦労がいついかなる場合も報われると考えるのは大変な誤りである。

 マジになることやシリアスになることは苦しみの源であり、それを肯定するのはマゾヒストだ。その性向を私は別に否定するつもりはない。しかし私個人は苦しむこともシリアスもマジになることも御免被る。私が今生で為すことはただ遊ぶことだけだと心に決めて残りの人生に臨んでいきたい。