他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

持たざる者

 何かを手に持ったまま生まれてくる人間は存在しない。一人の例外なく私たちは徒手空拳かつ裸一貫で産まれてくる。この世に私物を持ち込んで生を受ける人間など存在するはずがない。晴れ着や襤褸を身に纏いながら母の腹を出て来る者も居るはずがない。
 また、何かを所有したまま死ぬことができる人間も存在しない。金銭も不動産も死を前にしては自分と切り離されてしまう。どれだけ親密な人間関係を築き上げようとも、誰かと一緒に死ぬことはできない。死は共有できず、またそれに対峙するときにはあらゆる一切が無効化される。
 何かに対して「自分のものだ」という考えは単なる一時の思い込みに過ぎない。客観的な事実関係や法律などの規則によって明白に個人の所有物として見做され、公に定義されたとしても、それは人の世の決まり事や個人の主観において当人が我が物だと勝手に認定しているだけだ。厳密な意味で人は何かを我が物になどできない。
 そして、私有という概念が誤謬であるがゆえにそれは最終的に苦しみを生む。獲得や所有といったものが仮に真理だとしたら、それは不動にして永遠であるはずだ。だが実際にそうでないことは誰もが体験しているだろう。掌中に収めたはずのものが失われることも、手に入れたと自分の中で思い込んでいるだけで実際はそうでなかったということもままある。
 手にしたと思えるものも遅かれ早かれやがては手放さなければならない。契約書を交わしたり多くの人々から言質を取ったとしても、形があるものはいずれ劣化したり崩れたりしてその価値や姿を失う。そしてなにより、先にも述べた通り死者が何かを携えてこの世を去ることはできない。
 死は究極的な喪失であり、私たちが最も恐れるものだ。死ねばそれまで、というあまりにも明白で自明な事実に私たちは目を背けて生きている。生涯という道中で何を手に入れようとも、その終わりには全て失うとは明らかであるにもかかわらず、私たちは何かを手中に収めようと奔走する。改めて考えれば不可解極まりない。

 


 人間は自身の肉体すら誂えたわけではない。自分の責任や判断に基づいて肉体を形作ったり選んだりしたのなら、私たちの肉体は自身の所有物だと宣言できる。しかし現実はそうではなく、意図しない卵子精子の受精によって自分があずかり知らない経緯により作り出されたのが私たちの肉体だ。それならば、何故体が我が物だなどと言えるだろうか。
 自身の成育環境を自在にカスタマイズできる者もない。こういった環境で生まれ育ち、こういった家庭で人生を歩みたいと企図して幼少期や青少年期を送った人間が有史以来一人でも居るだろうか。そして私たちがそうでないなら、自身のバックグラウンドが自分に帰属する代物だと何故言えるだろうか。
 私たちの一生自体がそう言った意味では借り物だと言える。仮の肉体、仮の背景、仮の経歴、仮の生涯……。それらのどれもが自分の所有物でも私有財産でもない。我が物でないなら、当然自分自身と呼ぶには値しない。
 私たちの生は意図せず始まり、そして終わる。その一連の過程の中でわずかばかりの自由意志を私たちは自己の人生に反映させようと試みはするが、局所的に我意を通せるかどうかという話でしかない。大局的に考えれば、私たちの人生は私たちのものではないと考えるのが妥当だろう。

 人間としての生は借り物でしかない。そしてそれが尽きるまでの間に何かを得たつもりになったところで、それは所詮砂上の楼閣にすぎない。私たちは一人の例外もなく死ぬ。そして死者は何も所有できない。死人には私物を持つ権利も能力もない。そしてそれは遠からぬ私たちの未来の姿であり、人生の帰結である。
 その最中で何かを得ることや持ち続けることにどれだけの意味があるだろうか。金銭に限らず、記憶や思い出、経験といった心の財産も同じだ。それらを獲得し、所有し、蓄積したところで、死を目前にした人間にとってそれらにどれ程の意味があるだろうか。有形無形の別なく、何かを個人的に何かを持つということに究極的には意味などない。
 ところで、多くの見識ある人々がよく言うように、森羅万象は元を辿れば一つのものだという考えがある。 この世界の実相はただ一つの「実存」からなる。人間も物質も、宇宙も空間もそれらを生み出し、存在させる指向の一者、いわゆる神的存在があって成り立っている。それがなければ何者も存在しえない。逆にそれがあるからこそ万物は私たちが知っているような形で存在していると考えれば、この世の成り立ちや個人の人生といったものには合点がいく。
 その説を拠りどころにすれば、一者が数多の諸相として顕現し、それらの一つが私なのだと見なすことができる。私たちはもともとは一つものであり、大元を辿れは皆ひとつの存在である。また、人間に限らず全ての生命体や事物も一つのものを根源にしていると捉えられる。一個人としての生は仮の姿として顕れた現象にすぎず、本質的にはそれとはまったくスケールや次元が異なる「何か」が私だと言える。

 

 

 それを踏まえれば、これが私であるとか、これが自分のものだなどとは最早思えない。一個の人間としての生や一個人の生涯における財産や思い出、体験の蓄積というものは所詮は虚しいものでしかないかもしれないが、個体としての自己を超越した視野を持つに至れば、個としての得失など瑣末事に過ぎなく思える。
 自他の境目が幻想であるならば、私有という概念も錯覚にすぎない。私のものだ、などと主張することは、その対象が何であれナンセンスであるように思える。そして所有することに重きを置く必要がなくなり、最終的には得られなかったり失ったりしても気にも留めなくなるだろう。その境地にこそ自由や安楽がある。
 しかし、私有や所有という迷妄や幻想によって私たちの社会が支えられているという事実もある。自分の物であると主張し合うことで諸々の秩序が保たれているという側面を無視することはできない。日常的な感覚における世俗的な価値観がどんな状況でも無意味で無効だなどと主張するつもりは毛頭ない。
 私たちが生きる世の中はそのような虚妄によって成り立っている。貨幣経済も実体のない信用に根拠付けられた価値が紙幣やデータとしてやり取りされることで成り立っている。これもまた妄想や幻想のたぐいであると断ずることはできる。しかし私たちが文明社会の恩恵に浴せるのは偏にこの「嘘っぱち」を前提にして成り立つ共同幻想の中で生きているからだ。私たちの世界は実利的で生産性のある虚妄と幻想に支えられていると言って良い。
 だが、どれだけ現実的で実益に適っていたとしても空想は空想でしかない。私有財産制によって財産や生命が維持され、社会が安定し文明が進歩したとしても、本質的な意味で人間という存在は「持たざる者」であるという剥き出しの真実は覆ることはない。
 私たちは有益な嘘や幻とこの世の実相を両立させなければならない。私たちは虚構と現実の絶妙な均衡の中に生かされており、そのどちらも重要であると見るのが正常な感覚である。しかし、私たちは虚構の方にいささか絶対視しすぎる傾向がある。だからこそ私たちは方便は方便にすぎないということを自らにゆめゆめ言い聞かせる必要がある。

 便宜を図るために暫定的に何かを私のものだと主張することは悪でもなく間違いでもない。しかし、それは本当のところ真実にはかすりもしない妄言でしかない。それを弁え、踏まえながら私たちは所有権を主張するべきなのだろう。