他力斎

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生きてる証拠

 子供のころ、不満や不機嫌を顔に出す度に両親に責められたものだ。お前は何が気に入らないのか、何故そんな顔をするのかなどと言って、父も母も私が表明した態度を常に糾弾した。私が彼らの家庭で許されたのは、楽しそうな素振りと嬉しげな表情だけで、さもなければ恭順的な振る舞いに徹するしか選択肢が与えられていなかった。
 私の人生において満たされた体験など数えるほどしかなかった。文化文明の光など届かない津軽の農村で、先祖代々子々孫々ひもじい暮らしを営々していくことを運命づけられた星のもとで私はこの世に生まれ落ちた。人生において不安や不満がなかった瞬間などごくわずかしかなく、物心がついてから向こう、私は大抵は限界や制限を感じながら満たされることなくただひたすら鬱々と生きてきた。
 私は常に不満であり、不服であった。家は貧しく、親は厳しく、将来は暗かった。それはこどもの頭で考えても明々白々とした厳然たる事実であり、そのことを思えば子供の頃の私は嫌で嫌でたまらなかった。自身を取り巻く環境のすべて、身の回りで接する人間の全員、これから自分の身に降りかかるであろうあらゆる苦労や困難などを考えるだけで暗澹たる気持ちになるしかなかった。
 しかし、それを表明する機会も文句を言う術も全くなかった。自分の宿命や目下の生活に対して拒否することも疑問を抱くことも一切許されず、辛いだの苦しいだのと言うことはおろか顔に出すことも私は両親をはじめとした家族や周囲の人間たちから固く禁じられていた。そしてその禁を破るようなことがあれば私は徹底的に攻撃され、人格や精神にまつわる一切を否定されるのであった。
 私にできるのはただ無表情のまま辛苦が過ぎ去るのを耐えることだけだった。毎日を明るく朗らかに、屈託なく暮らすことなど私には途方もなく難しく思えた。しかし、不満や苦悩を表に出せば両親をはじめとした周り人間から糾弾される。快活に振る舞えず、不服や難色の念を表明することもできなかった私は、ただポーカーフェイスでいるしかなかった。さも何も思わず、問題を一つも抱えずに全て満ち足りているかのような涼しい顔をする以外にはなかった。
 さらに言えば私は、自身の人生に満足するよう周りの人間たちに強要されてきたようにも思う。鄙びた寒村で貧困に喘ぎながら割に合わない労働に従事し、不本意な生活を延々と続け徒に歳を重ね、年老いて死ぬしかない。他の道などあり得ず、それを夢想することすらも正気の沙汰ではないと考えるしかなかった。子供の頃から私の生は生き辛く耐え難くまた、逃げ場も救いも一切なかった。


 私は下層階級に生まれ、下流の人間として生きるように教育された。父親が通った小学校に通い、習い事はそろばん塾。今にして思えば、学問や文化芸術と言った類いのものは私の少年期においては一切なかった。私は人間である前に、社会通念に適う労働者として生きる為に調教されてきた。そろばんなどという習い事に少年時代の貴重な時間や労力を費やすことを強制されたということはそれを如実に物語っている。
 思い起こせば、生まれ落ちたその日から私は分を弁えるように育てられた。津軽における底辺労働者として生涯を送ることは、私にとって天命であり義務であった。それに則って生きる以外にどういう活路もなく、生まれた日からその前提に基づいて躾けられてきた。
 高校進学のときには普通科に通うことを許されず、職業科しか選択肢がなかった。学力云々以前の問題として、両親は私の進路の選択肢を著しく制限した。普通科は大学に行く人間のためにあるのだと両親は私に断言し、私には普通科での教育は不要だと言い放った。私ははじめ、工業高校の土木科に強引に入れられそうになったが、それだけはと泣きついて別の学科に進学した。しかし高校進学においてどの学科に進もうが普通科でないというだけで私には十二分に屈辱的であり、また絶望的なことでもあった。
 一生涯、田舎で貧しい暮らしに甘んじることが私に課せられた宿命であった。大半の津軽人にとっての職業選択の自由とは、生まれ育った場所から通勤できる範囲で製造業か販売業か、さもなくば土木作業かのどれかの職に就くか自分で選ぶということにすぎなかった。そして私自身もその例に漏れず、職業科を卒業し次第津軽の何処かで働くしかなかった。高校時代の私にとって、それは避けがたい帰結であった。

 

 繰り返しになるが、両親は私が自身の生に疑問を抱くことを一切許さなかった。私の人生における選択肢の少なさや辺鄙な土地で貧乏な暮らしに甘んじることについて、当然のことだと思わなければならず、そこにはなんの不足もないと考えなければならなかった。その意味で私は両親の意に全く沿わない人間であり、そのことは彼らにとって大変好ましくない問題であったようだ。
 両親にとって、私が日常に不満を抱くことは単なる甘えとしか見なされなかった。要するにワガママだということらしい。欲しいものが手に入らないことを満たされないと感じることすら彼らの感覚においては単なる身勝手で聞き分けのないことでしかないのだろう。私が貧しい田舎暮らしに希望が見出だせず、勉強して身を立てる機会すらない事実を明確に意識し絶望することも、両親にとっては単なる「おかしいこと」なのだった。
 両親の立場において家庭は完璧であり自分たちは無謬であった。彼らの世界観においては必要なものは全て一揃いあり、何の不足もない状態であるにもかかわらず、私一人が異常な挙動や態度を取っていた。一縷の望みも、ささやかな楽しみもない窮乏状態で、閉鎖的で先行きの暗い寒村での貧しい暮らしなど少なくとも津軽においては「普通」であった。にも関わらず私はそれを甘受することができなかった。
 私は彼らからしてみれば軟弱で陰気な子供、有り体に言えば頭のおかしい出来損ないだった。父も母も、私に対して頭がおかしいと思っていたし実際に口に出しそう言った。単刀直入に言えば、私は田舎も貧乏も大嫌いだった。だがそれは結局のところ両親、ひいては津軽それ自体への批判であり否定となる。両親の立場からしてみれば、無論それは許されざることだった。また仮に私は表立ってそれを明言してあれこれ言い立てたところで、両親にできることなど何ひとつとしてなかっだろう。


 今の私には両親を責める意図などない。とどのつまり、貧困が全ての問題であった。しかし父親にも母親にもそれを打開するすべなど何もなかったし、私たちの一家津軽の地を離れて殷賑な街に移住することも能わなかった。その結果として僻地の底辺として人生を貫徹しなければならないのはやむを得ないことではある。
 また、両親が私にした仕打ちや言動は全て社会的な要請の代弁だったと思っている。文明社会は結局のところ下層で支える人間が存在してはじめて成り立つ。その礎となるのは低賃金で長時間拘束される現代の奴隷、人の形をした家畜の存在であり、有り体に言えば底辺の人種である。そしてそれは頑迷で無知な経済的弱者であり、この国の社会において津軽人はその典型にして筆頭だと言える。
 自身の境遇に満足せよ、という無言の圧力は社会全体に浸透している。底辺の人間はは世代を超えて底辺でなければならない。父や祖父、先祖代々がそうであったように、私もまた世の中を最下層で支え続ける義務と宿命を負って生まれてきた。だから私は悲惨な環境で貧窮し、多くを知ることもなく狭い世界で生きるように社会全体に強要されていたと言っても過言ではない。両親はそんな日本社会の尖兵として私を馴致していただけだ。
 目下の状況に疑問や不満を抱くことはそれ自体が反抗であり反逆だ。世間は万人のためにあるのではない。それは中流以上の人間が豊かさや幸福を良くするためのシステムだ。中流足切りされるような人間はそれを維持し発展させるための道具として消費されるだけの存在だ。そして私は言うまでもなく後者に属して生まれてきた。そしてその二者は多くの場合逆転することも交わることもないのが常だ。
 今にして思えば、私は生まれながらにして精神的に去勢されていたのだ。奴隷、道具、家畜として産まれ生き死ぬ定めを当たり前で避けられないことだと子供の頃から言い聞かされ、自分でも思い込んでいた。糞でも食らうべきだろう。
 人生の本質とは不平不満と悪足掻きに尽きる。分相応だとか足るを知るなどといった邪悪な思想はことごとく粉砕されるべきだろう。人間は満たされないから行動する。屈辱や渇望こそが人間にとっての原動力となる。貪婪で見苦しい人間こそ称揚されるべきである。

 言わば、不服の念とは生きてる証拠である。私はこれまでの生において、満たされないことを問題視していた。その一方で、執着や未練を断ち切ろうと試みたこともあった。しかしそのどちらも間違っていた。人生とは飽くなき追求であり、それにはエネルギーが必要だ。その根源となるのはとどのつまり、不平不満である。それは避けることも除くこともできない。ならばいっそ礼賛してみるのも一興だろう。