他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

汚穢な帰結

 スーパーにおいて肉を買うべきかどうか逡巡した。その間数十分にも及んだ。どうしても肉が食いたいという思いと、財布から金が目減りすることへの抵抗感がせめぎ合い、私は売り場を何往復もしながら悩みに悩んだ。また、仮に買うとしても豚肉にするか鶏肉にするかでも迷い、結局のところ両方買うことに決めるに至った。

 買い物を終え自転車を漕ぎながら帰路につく途中、ある疑問がふと頭をよぎった。一体肉を晩飯にして食ったところで、一体何がどうなるというのか? また、仮に肉を買うことを諦め別の何かを食ったところで、一体何がどうなるというのか? そして自問への自答は滞りなく出た。別にどちらにしろ同じことだと。

 肉を食いたいと思い肉を買って食べる。それを断念して別のものを食べる。どちらにしても私の身に起きることは同じだ。何を食べたとしても結局のところ体内で消化され最終的には排泄される。摂食・消化・排泄という一連のパターンは結局何を食べるかに拠らず全く変わらない。にも関わらず何故私は何を食べるかで迷うのだろうか。

 とどのつまり、何を口に入れても糞になるという結末は全く一緒だ。どれほど上等な料理を食べたとしても、またどれほど粗末な食事をしたとしても、最終的な帰結には少しの違いもありはしない。出て来る便の質や量に若干の違いは在るかもしれないが、それは微々たる違いでしかない。所詮全ての食事は不潔極まりない行為に帰するというのは疑いようのない事実である。

 それどころか、食事を中心としたあらゆる人間の営みはよくよく考えてみれば脱糞という一時に全て集約される。人は飯を食うために働かなければならないと言う。しかし食うことで生み出されるのは所詮は糞だから、人は糞をするために働いていると言い換えることもできる。他方、居住スペースや生活環境の維持なども生きる上で必要とされる物事の全ては安心して糞をするためのものだと見なすことは決して暴論ではない。

 生きることと糞をすることは、完全に等号で結ばれる。どれだけ迂遠な道のりを経たとしても、生存上で行われる営みの一切は最終的には脱糞に帰結される。生活費とは脱糞のために費やされる金銭を指すと言っても過言ではない。排泄される糞の量を増やすために私たちは飯を食い、安心して脱糞する場所を確保するために定住する家を必要とする。生活の水準や様式の詳細などは枝葉末節の瑣末な違いでしかなく、万人の営みや振る舞いは脱糞という一事において完全に同一なのだ。

 

 

 人間の暮らしぶりは人それぞれ多種多様な違いがあるが、それらが最終的に辿るところは糞をすることだけだ。どれだけ富貴で高潔な生活をしていようとも、排泄行為を日常から根絶することはできない。潔癖な人間でも大便や小便を一日の内に一度も行わないなどありえない。万人に共通することの一事はあまりにも無視され顧みられることもないが、それが私たちの目を曇らせ惑わしているように思えてならない。

 人生とは徹頭徹尾脱糞のための行為でしかない。糞をすることは最も人間が生きる上で欠かすことができないのは明らかだ。排泄こそ人間を人間たらしめる、人間性そのものであるとも言える。俗世から隔離された僧院ですら、便所を設けないわけにはいかない。天皇をはじめとした皇族や御わす御所でも、大会社や省庁で働いている社会の上層に位置する人間の勤め先であっても、便所は必ず設えてある。

 貴賎、正邪、善悪の別なく、生者は糞と無縁ではない。どれほど偉大で尊敬すべき人間であったとしても、生きている限り必ず大小の別なく排泄行為を日常的に行っている。この公の場においては当然憚られるような行為に手を染めない人間などこの世の何処にも存在しない。そのことについて考えを及ばせる機会が、私達にはあまりにもか欠けているように思えてならない。

 私たちは命ある限り脱糞し続ける宿命であり、その点において万人はみな平等だと言える。尊い者、賤しい者、優れた者、劣った者……。この世には雑多な人種が存在するが、皆一人の例外なく脱糞するだけの存在にすぎない。そう思えば、誰もがクソったれであり、畏怖や崇敬の念を抱くに値しないと断じられる。糞漏らしなど脅威でもなければ珍重すべきものでもない。

 

 逆に糞をしなくて良いのは死者だけだ。事切れれば脱糞は止む。心臓が脈打つことがなければ肛門も伸縮せず、腸から糞が生み出されもしない。私たちは死ぬことによってのみ糞と縁を断つことができるのであって、それに至らないなら脱糞という業からどんなことをしても逃れることはできない。

 勤労にしろ怠惰にしろ、生の帰結は糞を出すことに尽きる。これは決して極論ではなく、ありのままの純然たる動かしようのない事実であり現実でしかない。結果や成果に着目するならば、人間の営みは先に述べた通り脱糞すること以外にない。それに行き着くまでの過程にどれだけ高尚な事件を経ようともそれは物事の本質にはかすりもしない瑣末事でしかない。

 人はいかに生きるべきか、などと世間ではもっともらしく論じられる。しかし、どんな仕事に就きどれだけの金を稼ぎ、どれほど贅沢で満ち足りた生活をしたところで、結局のところその最後は何にたどり着くかはもう何度も述べた通りだ。排泄こそが人間にとっての最終的な目的であるとさえ言える。私たちは糞を放り出すために食事を摂り、安堵して気分良く排泄に及ぶために生活環境を整えている。それらを得るための手段として金銭や労働があると言って良い。

 剥き出しの生の本質とは即ち糞であり、人間は糞を生み出すだけの存在でしかない。浮浪者が野糞をすることと、豪奢な居を構える者が自宅のトイレに長っ尻して脱糞することの間に、一体どれほどの相違があるというのだろうか。両者が及んでいる行為は全く同じであり、差異など少しも存在しない。一方を否定し、一方を肯定するのは単なる謬見以外の何物でもない。

 

 

 人間に対する糞袋という形容は極めて的を射ていると言える。畢竟、人間が生み出すことができるのは排泄物しかない。学問や文化・芸術でさえも、排泄という究極的な行為のための手段にすぎないと私は考える。学者が研究によって金銭を得て生計を立てて最終的に行うことは? 絵描きや作曲家が創作を行い、それが金になったとして、その果に彼らが最終的に行うことは? これ以上は言うまでもないことだろう。

 万人は糞を生み出し、それを蓄え放り出すだけの存在だ。その糞袋としての私たちの個体としての特徴など何の意味があるだろうか。見た目や能力にどれだけの差異があったとしても、私たちが最終的に行うこと、万事の行き着く果てにある行為には全く違いがない。生者など皆等しく汚れそのものであると見なすのが妥当であり、誰であれ生み出すものやできることなど高が知れている。

 この身も蓋もない真理を見据えたまま生涯を完遂できる人間は稀だろう。人は糞をするために仕事をし、居を構え、呼吸をし、健康を維持する。たったひとつの人類共通の汚穢な帰結のために私たちの生涯は捧げられ費やされる。私たちは脱糞する為に生まれてきたようなものだ。そして死とは個体として排泄行為の終焉を指す。そのような価値観や世界観に確信を抱いて生きる人間など果たして存在するのだろうか。普通の感覚なら、それは受け入れがたいものであることは言うまでもない。

 だから人は臭いものには蓋をする。自分が糞を溜め込んで放り出すだけの存在で、自分がする仕事をはじめとしたあらゆる行為は排泄に結びつくものでしかないなど認めがない。しかしそれを完全に否定する術もないから、取り敢えずそのようなあからさまで露骨な事実は無視し、考えないようにする。さも自分が携わっていることが高潔で、自身および自分の身の回りの環境が清潔であると思い込み、汚穢な実相から目を背けるながら人生をやり過ごそうとするのが世の習いだろう。

 清浄という幻想の中に逃げ込もうとしてもそれは、所詮現実逃避でしかない。排泄物および排泄行為と完全に縁が切れるのは死人だけだ。私たちは生ある限りそれらと密接であり続ける。糞・糞・糞……人の営みや人間の肝などそれ以外の何かではありえない。ならば、何を食べるか、何処に住み何を生業にし、どのように時間を過ごすかなど些細な違いでしかない。尊くも尊くもなく、卓越性や特別さも虚妄にすぎない。そう考えれば、真面目腐り尤もらしく生きるなど愚の骨頂だ。

 兎にも角にも人生即排泄、人間即大便という結論に尽きる。生きるということは世間で言われているほど高尚でも荘重なものではない。命ある限り私たちは糞を放り出すのみ。それ以上でもそれ以下でもない。ならばもっと気楽にいきたいものだ。