他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

受難

 生きることはすなわち苦しみである。少なくとも私の場合はそうであるし、世に言われているような様々な人々にまつわる説話などを見聞きすれば種種雑多な苦労話のオンパレードで、辛苦と無縁な人生など全くもって望むべくもないのだと思うと暗澹たる気持ちになる。肉体的にも精神的にも舞った苦しい思いをせずに済むケースは極めて稀であるというのは言うまでもない。

 一見何の苦労もないように見える人間が居たとしても、それは表向きにはそう見えるだけである場合がほとんどだろう。また、苦しみの種類が人それぞれ異なるだけで、独身者には独身者としての、所帯持ちには所帯持ち特有の、それぞれの苦しみが必ずあるだろう。家族が居る者が被る苦しみと天涯孤独の人間が被るそれは比較できるものではなく、どちらが楽だとは一概には言えない。

 苦しみから解かれることは万人にとっての望みであろう。仏教などが代表的だが、宗教はまず苦しみへの深い洞察に端を発する。人は何故苦しまなければならないのか。そしてどのようにして苦しみから解放されるのかということを論ずるのが宗教の根本義である。そしてそれは現代においては科学や学問でも代用が利く。どのような手段や試みを用いるにしても、人間にとって苦しみとどう向き合うかということは一人の例外なく重要な関心事であると言える。

  世界中の賢明で偉大な人間たちが、数千年にも渡り苦しみをどう処理すべきか思弁してきた。またそれについて多くの人々が侃々諤々の議論を重ねられてきた。しかし、その結論は今日に至っても出ていない。科学や宗教が発達し、思想や学問が洗練されて来たにも関わらず、人生における苦が取り除かれる気配すらないのはどうしたものだろうか。

 苦しみたくない、あるいは楽に生きたいとこの世の誰もが願っているにも関わらず、それが成就することがないのは一体なぜなのだろうか。科学技術の発達が足りないからだろうか。それとも社会制度上の不備がそれを阻んでいるのだろうか。それについての答えなど私ごときが出せるはずもないが、分からない、仕方がないでは気が済まないという思いもある。苦についてこの機会に一考し、一応の結論めいたものを出さなければ収まりがつかないため愚考を弄することで自身への慰みとしたい。

 

 

 私は子供の頃からずっと、苦しみたくないと思っていた。欲しいものが手に入らないことが我慢ならなかったし、やりたくもないことを周囲の大人に強要されることも耐え難く感じられた。それらの全てがまだ幼かった私を苦しめ続けた。両親や学校の教師などが私に与えた仕打ち、それは教育や躾という美名を冠して行われたが、私にとっては単に辛くて苦しいだけだった。

 小学生の頃の私には苦から逃れる術など皆目見当もつかなかった。だから私はただひたすら現実逃避するしかなかった。アニメや漫画、テレビゲームなどに耽溺し、自分が被っている嫌な出来事や自分の身の回りの状況を必至に忘れようと努めた。それは今にして思えば愚の骨頂でしかなったが、無知で未熟だった私にとってはそれ以外に選択肢など思いつくことは不可能だった。

 少年期から青年期にかけて、私は被害者意識の塊であった。とにかく自分が理不尽で悲惨な目にあっていると信じて疑うこともなかった。それは確かに客観的な事実ではあったが、自分が感じている苦しみがなぜ生じるのかということへの考察が足りていなかったと今になって振り返って思う。

 世界は苦難と悪意に満ち満ちていて、それらが私を責め苛んでいると私は捉えた。辛さや苦しさの根本的な原因は自分の外側にあり、それが無辜な存在でいる自分に降り掛かってくるのだと確信していた。結論から言えばそれは全くの間違いで、自分自身だけでなくこの世界自体へのとてつもない謬見であったのだが、それについては後述する。

 高校生くらいまで私は自分が田舎で暮らしをしているから辛い思いをするのだと思っていた。都会に出られれば、自分を取り巻いている問題はすべて解決すると考えた。要するに環境さえ変われば人生が変わると信じていたが、結局のところそれは現状間違っていたと言わざるをえない。私は上京して一年と経たずして、田舎暮らしが私の人生における最大の問題ではないと思い知ることになった。東京でも私は苦しんだからだ。

 

 私は貧しく、自分に自身が持てずに卑屈で惨めな人生に甘んじた。そして無駄に犬馬の齢を重ね、唯一の取り柄だった若さすら無意味に浪費し現在に至る。人生に常に苦しみが伴い、不本意な生き方しかできないという問題は現在においても全く解決の糸口がない状態である。

 一日も休まず、苦しみから逃れるにはどうすればいいかと常に考えてきたと言っても過言ではない。そのような悩み深い人間が精神世界やスピリチュアルに傾倒するのはお定まりの傾向だった。私はそれに関する情報をネットで徹底的に漁り、瞑想やら自己啓発やらにうつつを抜かし、青春時代を完全に棒に振ってしまった。

 ワンネス思想だの「嬉し嬉しの世」だのといった言説や、奇抜な呼吸法やイメージング法なども全く功を奏する事はなかった。心のトラウマだのインナーチャイルドだのの類いを癒やすことも試みたが、それらについて意識を向け通り一遍の努力を費やしても私の人生は一切好転することもなく、現在においても苦しみの只中にある。

 人生における苦しみは滅却されることも和らぐこともなかった。過去現在未来の別なく、私を苦しめるあらゆる要因を取り除こうとすればするほど、遠ざかろうとすればするほど、手放そうとすればするほど、却って逆効果になるばかりだった。私には苦もなく生を謳歌するなど自分には到底不可能な芸当であると結論付けるしかなかった。

 私は単に楽しく、面白い人生を望んだが、それは夢想するだけの代物でしかなかった。過去には後悔、未来には絶望しか見出だせず、それらに板挟みにされた私の現在はただただ息苦しく、息が詰まりそうな思いがした。それを感じることや考えることから逃れたい一心で、私は結局酒に溺れ本格的に身を持ち崩す羽目になった。

 

 

 しかし、そもそも苦しみとは何なのだろうか。心身の別なく苦痛を被ることだろうか。悲しみや憤りなどといった否定的な情動が惹起されることだろうか。傷を負い、病を得、年老い、体の自由が効かなくなりやがて死に至ることだろうか。それらはどれも苦の遠因ではあるだろうが、苦しみの根本と呼ぶには何かが足りない感がある。

 苦の本質とは、自分の思い通りにならないことだ。単に肉体や精神が損なわれる状態が苦なのではない。また、理不尽や不条理、不運や災厄などといったあらゆる外的な要因が直接的に苦だというのも誤りである。それらによって自分の意に沿わない何かが起こるがゆえに、私たちはそれを苦に感じるのだ。

 首尾よく物事が進んで然るべきだという前提こそが苦の発端であると考えることもできる。思い描いた未来予想図に従って万物が運行し、万事うまく取り計らわれて当然だと傲慢にも思っているから、その思いが裏切られたときに私たちは騙し討を食らったような気になる。夢想は悪夢に転じ、私たちは受難劇の主人公を演じ始める。

 私たちの願望、予期、想定といったものが反故にされたという思いが苦の直接的な原因であった。無下にされ、袖にされたというある種の被害者意識が私たちに苦しみの念を抱かせる。苦とは、他者や世界が自身に背信でもって報いたという身勝手な主張や思い込みそのものであると言っても過言ではないのかも知れない。

 あらゆる期待、予測、願望が私たちを苦しめるが、逆に言えばただそれだけだ。どれほどの悲惨、艱難辛苦、思いもよらない大災害に見舞われたとしても、都合のいい未来や将来への夢想を当然のことと思い込まなければ、私たちの生に苦はないはずだ。

 手前勝手な願望への盲信を捨てなければならない。未来について何も信じていなければ、私たちに苦しみはない。ある意味絶望こそが苦しみの終わりであると見なすことも可能ではないだろうか。