壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

絶望

 絶望という言葉は否定的な意味合いを込めて用いられる。実話でもフィクションでも、この単語がいい意味で使われていたためしがない。絶望とは行き止まりであり、恐るべきで避けなければならない情緒や状態であると考えるのが一般的な解釈だろう。しかし、望みが絶たれたと書いて絶望である。逆に言えば、単にそれだけのことでしかない。なぜわたしたちはそれを極端に忌避するのだろうか。
 世間においては、ポジティブは善であり、ネガティブは悪とされている。希望は良く、失意や絶望は勿論悪だ。社会の大半の人間は、それを何の疑いもなく受け入れ、当然のこととして信奉できるのだろうか。将来への望ましいヴィジョンを明確にし、常に目標や夢に向かって猪突猛進するのが人としての当たり前の生き方なのだろうか。
 自己啓発やスピ系などの世界では願望実現などのために肯定的な精神を殊更尊ぶ。とにかくポジティブシンキングが正しく、後ろ向きで悲観的な考えや感情は脳裏や胸中から完璧に排斥しなければならないと言わんばかりの風潮がまかり通っている。前向きであれ、と説く情報に触れる度に私はなんとも言えない違和感を覚え、浮世離れしたスピリチュアルな界隈にも浸りきれない自分にもどかしさを感じる。
 確かに根暗よりは根明の方が実社会において生産的だと言えるのかもしれない。自分の目的や目標にただ邁進し、過去に後悔せず未来にも臆することなく、ひたすら利潤や成果を追い求める人間は多くを成しまたは獲得するかもしれない。仮にそのような人間だけの社会が到来すれば、国家の発展はさぞ目覚ましいものになるのだろう。
 だが、そのような他人や世の中の流れに私はどうしても同調できないでいる。屈託のない朗らかな人種、憂いも煩いも一切抱くことのない人間、命ある限り愚考に耽ることもなく労働と消費を延々繰り返すだけの存在……。要するにポジティブ礼賛の風潮を良しとする個人や集団、共同体において好ましいのはそのような類いの輩であり、私はどうしてもそれにはなれず、またそのような連中に与することもどうしても能わない。

 


 私は夢や希望を持って生きろと多くの人々に言われて育ってきた。両親や学校の教師はもちろん、あらゆるメディアを介して大人たちは私にその手の思想を吹き込んで居たように思う。子供の頃は望みを持つことがいいことだと臆面もなく漠然と、ただ唯々諾々と信じ、拙いながらも自分なりの未来予想図のようなものを夢想した時期もあった。
 将来なりたいもの、などといった作文を小学校などで書かされたのを今でもよく覚えている。自分がおとなになったらどのような職業につき、どのような人間になり社会に貢献したいかといったことを誰もが学校の授業などで表明させられるだろう。そのような局面において、自分は何物にもなりたくないだの無思慮に願望を持つことを疑問に思うだのと主張することができる人間は極めて稀だろう。
 そして、大学時代においては、就職活動の際には未来のヴィジョンについて語りアピールせよと盛んに言われたものだ。自己アピールや志望動機はとにかく明るく、肯定的に、自分に将来性があることをあらん限りの言葉や態度で示し、明確な目標を思い描きそれに全身全霊で取り組める積極的な精神や人格を持っていることを証明しなければならなかった。
 社会に出ても、人生設計や将来への展望などを思い描くことが良しとされている。組織に利することで出世し、役職を得、結婚し家庭を築く計画があってはじめて社会的に望ましい人物であると見なされる。一生独り身であっていいはずがなく、やりたい仕事が特にないなどと表明するなど以ての外だろう。
 社会のあらゆる人間たちから私は、希望に満ち溢れた自分の将来像を常に携えよと、長らく強要されてきた感がある。将来に展望がないなどあってはならないことであり、いつどんな場合においても生産的で社会的に称揚されるべき夢や目標を掲げなければならない。振り返れば私は、そういった圧力を常に受け続けてきた。そしてそのような考えに馴染むことも受け入れることもできない私は、とどのつまりは単なる社会不適合者でしかなかった。

 

 結局のところ、私は心躍る未来への展望よりも、失意や絶望といった念の方を抱かざるを得なかった。自分にとっての望ましい人生や将来なりたい人間像などといったものを子供の頃から思い描きはするものの、後天的・先天的の別なく人生におけるあらゆる要素がそれを阻み、私に挫折や蹉跌の経験を味わわせた。私は生涯におけるあらゆる局面で無力感や限界・制限といったものを思い知らされ、自分にも社会にも絶望させられた。
 実際、未熟だった子供の頃に思い描いた数々の夢は一つたりとも実現しなかった。子供の頃の夢は、ここで書くことすら憚られる思いだがゲームクリエーターだのテレビマンだのといったものだった。それは私が生まれ育った環境からは目指すことはほぼ不可能な職業であったし、私自身の能力や才知という点で考えてもやはり到底成就するはずのない夢であった。また、それらとは全く別種の細かく、細やかな願望も全く叶わなかったと言ってもいい。
 加えて、多少なりとも希望的観測でもって信用・信頼した人間たちには悉く裏切られた。家族、親戚、友人知人、学校や仕事上で関わった多少親しい間柄……。一々一人一人あげつらうことになんの意味もないため列挙しないが、兎にも角にも誰もが腹に一物あり、悪意や私利私欲のために私を痛めつけ、瞞着し、予期せぬ手段で欺いたものだった。要するに、私は他人というものに希望も期待も一切抱くことができない人間になった。
 結局、積極的で生産性のある人間やそういった人種が是とする考え方や捉え方といったものなど私には全く同意しかねるものであった。夢? 希望? 期待? ヴィジョン? どれもこれも私の人生には全く縁もゆかりもないものだ。大空の気流の如何が肴には無関係であるように、私という個体には希望など糞の役にも立たないどころか人生においてかすりもしない代物でしかない。

 ちなみに、よく持て囃される「引き寄せの法則」などもまるで効果がなかった。どれだけ起こって欲しい好ましい結果や状況を妄想したとしても、それが現実のものとなったことは一度もなかった。会いたい人の顔を思い浮かべても彼と会うことはなく、二度と顔を合わせたくないと乞い願った極悪人に限ってしつこく連絡を入れて来ることが常であった。

 


 所詮、明るい展望への確信など、少なくとも私にとっては望むべくもないものでしかなかった。どのような心がけをし、どのような振る舞いをしたとしても私はポジティブにはなれなかった。また、精神世界系のあらゆるメソッドを試したところで、私の実人生が希望や願望に沿ったものになることはなかった。その気配すら感じることができなかった。
 そもそも、希望や夢など本当に人間にとって必須なのだろうか? どれほど爽やかで清らかな内容であっても、希望など所詮美辞麗句で糊塗された欲でしかないように思えてならない。いわゆる絶望とは、欲がないと言うただそれだけの状態でしかない。私はそれについて、良い悪いなどと断ずる事自体が見当違いであるように感じられる。
 ただ、欲自体を抱くことは全く何も悪くはないが、それが成就しないことを気に病み問題視することは良くないというより醜悪だ。自分本位で己の都合によって何らかの欲が生じ、それに伴って未来や結果、成果といったものまつわる願望や空想を頭のなかで惹起させることは個人の勝手だ。しかし、それが外界や他人との関係性に反映されないといって嘆いたり憤るなど言語道断だ。一体何様のつもりなのだろうか。これは言うなれば「そうであればいい」と「そうでねばらならぬ」の違いであり、これらには大きな隔たりがある。
 手前勝手な我欲にまみれた「希望」や「念願」が裏切られたところで、人は本来いちいち気に病む必要などないはずだ。ワガママな欲望を誰かれ構わず要求し、無理強いし、それが思い通りにならなければ泣きわめき、怒り狂い、へそを曲げ、自己憐憫に浸る。一体何様のつもりなのだろうか。傲慢にも程がある振る舞いだといえる。
 私は醜悪な希望よりも、それがない絶望の方が潔く好ましいとすら思う。願いや望みなど、どれだけ綺麗で美しい言葉やイメージで飾り立てたところで、それは欲に根ざした単なる妄想の域を出ることはない。期待、夢、大志……どのような言い方をしたところで、それに縋り執着し、実現や達成に躍起になり、何かによって不意にされる度に四の五の言うのは見苦しい。