壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

追憶

 ふと気づけば、東京に出てきてもう10年以上経っている。自分でも自覚がないままにどんどん馬齢を重ね、もう若くない年齢になってしまっているのは我ながら驚くばかりだ。自分を取り巻く環境は全く好転していないにもかかわらず、肉体的にはどんどんしに向かっている。心身の衰えを感じるほどではないが、文書などに自身の年齢を記載しなければならないときには、自分の年齢を嫌でも思い知らされる。

 今住んでいる街ですら、もう暮らし始めて4年以上になる。これを書いているマンションに入居したとき、私はまだ20代前半であった。そして紆余曲折あり2回職業を変えながらこの地で粘り、現在も同じ場所で根を下ろしている。4年という歳月は大学生で言えば入学から卒業までの時間に匹敵する。そう思えば相当長い期間ということになる。

 若者というカテゴリーからも外されつつあるという事実に愕然とする。実家の両親から結婚を催促される電話がかかってくる度に、自分がそんな歳になってしまったのかと驚愕する。これまでの乏しい恋愛経験と自分の年齢を照らし合わせて絶望することもしばしばだ。恋愛だの結婚だのという言葉で自分の年齢を意識させられるほどには、もう私は若くないという現実を両親をはじめとした様々な他者から突きつけられる度に私は嫌な気分にさせられる。

  転職もままならなくなってくるお年頃だ。完全未経験から全く別の業種や職種に気軽に職業を変えることはもう難しい。現在就いている仕事にどれほど不満があったとしても、現状維持のほうが無理に転職するよりもまだマシである。私がもっと若かったなら発作的に仕事を辞め、すぐに別の職場に飛び込むこともできただろう。実際これまで何度もそうしてきた。しかし、もうそれも現状においてはもう許されることではない。

 歳を取ると加齢臭がするというが、私の肉体も遠からずそうなるのだろうか。私は毎朝目覚めるとまず自分の頭を載せている枕の匂いを嗅ぐ。自分の加齢臭がきつくなっていないかどうか無意識のうちにやってしまう。そして中高年特有の例の悪臭が自身の寝床から発せられていないと確認して取り敢えず安堵する。もっとも自覚できていないだけかもしれないが。

 

 当然私もかつては子供だった。可能な限り自身の生涯において最も古い記憶を思い出せば、私は生まれ育った弘前の町並みを思い出す。弘前と言ってもしないとは名ばかりの農村部で、時代の流れから取り残された鄙びた集落のような場所だった。そこの通り沿いに私の家があり、道伝いにしばらく行き雑貨屋の前を右に曲がり暫く歩くと保育所があった。そこへ通っていた道すがらの光景が私が思い出せる最も古い記憶だ。

 幼少期の私は自分の家が貧しく、また住んでいる町が日本の地方においては屈指の田舎だとも気づかなかった。当時の私には自分の目に映る範囲だけが世界の全てで、町のどこからでも望める岩木山がこの世で一番高い山だと思っていた。いや、この世だの世界だのといった概念すら当時はなかったはずだ。自分の生活圏の外にも無数の街があり自分とは全く境遇を事にする人間がひしめいているなど、想像もできなかった。

 町の外という概念が芽生えたのは小学生の小3か小学校高学年になってからだろう。自分の家が貧乏であり、暮らしている町がとてつもなく辺鄙な所だということを私はテレビや雑誌などを通して知らざるを得なかった。自分が恵まれていないという現実に直面し、両親や学校の教師、親戚縁者などと言った周囲の大人の狭量さや頑迷さに薄々勘付いてしまう段階だ。

 中学生の頃にはもう完全に捻くれてしまっていた。私は自分の未来を信じることができず、ただ毎日を無計画かつ刹那的に浪費した。当時の私は自分の将来を悲観し、詐病生活保護を受給して一生遊んで暮らそうと本気で夢想したものだ。当時懇意にしていた親友と呼んでも差し支えない友人は、皆私よりも裕福で都会育ちの非津軽人だった。私は表には出さなかったが彼を心底妬んだ。彼は私よりも遥かに勉強の出来が悪いにもかかわらず、親の財力によって市内では指折りの名門私立に進んでいった。

 友人や知人の殆どは当然のごとく普通科の高校に進学していった。だが私は職業科にしか進めなかった。高校時代に属していた学科名や学習した内容については伏せるが、そこで学ぶ内容は底辺として行きていくことを前提としたものであり、それを自覚したときに私は自殺したいほどの屈辱を覚えた。死にたい気持ちを抑え鶏口牛後とばかりに学年で1番の成績を1年生から卒業するまで保ち、奨学金と推薦で大学に進むこととなった。

 

 自分が上京したての頃はまだ将来に希望が持てた。職業科から推薦で入れる大学などたかが知れている。そこでどれだけ頑張ったところで社会に出ても辛酸を嘗めるだけなのだが、東京に出てきて日が浅かった私はそれに対して時間が足りなかった。

 大学のグレードの低さが自分の人生において致命的になるとあらゆる局面で痛感させられた。大学1年の頃、赤坂の放送局でアルバイトをしているとき、バイト仲間同士で通っている大学の話になり、そこで私一人が悪い意味で浮いてしまった。その時の周囲の私に対する冷めた反応が今でも忘れられない。その程度はまだ序の口で、大学での講義中ですら教鞭をとっている講師共から面と向かって愚弄されたり嘲弄されたりした。曰く、こんな大学に通うような奴は生きている価値がないといったような趣旨の内容の発言であった。

 本番は就職活動の時期だ。ろくな大学にも通えないような人間が就職戦線においてそもそも勝負の土俵に上がることもすら許されない。勝ち目がないどころか、始める前から終わっている自分の就職活動や将来というものに私は絶望してしまい、半ば引きこもりのような状態に陥っていた時期もあった。

 将来への明るい兆しを見出だせず、私は学業を放擲した。自分が専攻している分野にも完全に興味を失い、意欲もなく自分でも内容がわからないでたらめな内容のレポートや卒業論文を書き散らして単位を取り卒業までこぎつけた。それに一体何の意味が遭ったというのだろうか。卒業後の展望など暗澹たるもので、考えるだけ無駄だった。

 卒業証書一枚渡されて大学を放り出された私に待っていたのは、最底辺の労働者としての生活だった。就職活動にも失敗し、資格も技能も何もない状態の私は一瞬で学生という身分を剥奪され無職の求職者に堕する羽目になった。そこから先は悲惨の一語で、卑しい職業を転々とし、ただ徒に犬馬の齢を積み重ね、取り返しがつかない状況に陥りながらもオメオメと生きながらえて現在に至るという有様だ。

 

 

 自分の半生を振り返って、本当に他ならない自分が歩んだものなのかと思う。ひなびた田舎町の農村部で生まれ育ったこと。学生時代や社会に出たばかりで仕事が中続きせずに今よりももっと貧窮していたころ。毎晩酒浸りで7年ほど一日もかかさずに断続的に安酒を呷り続け、内臓や自律神経を壊して死にかけたこと。それらの記憶を記憶を思い起こす度にまるで他人事のように思える。

 私の過去はもう何処にも存在しない、言うまでもないことだ。ありありと想起できる事柄も最早この世で再び展開されることは絶対に有り得ず、私の頭のなかにしか存在しない。それは自明なことだが、そのことをはっきりと自覚してみれば奇妙な感覚に陥る。自分を自分たらしめる観念上の拠り所としている代物があやふやで心もとない性質のものでしかないという事実。

 人間は過去の記憶を手がかりに自分自身を定義する。私たちは戸籍謄本や住民票、履歴書や職務経歴書に記載されている情報を閲覧してこれこそが自分だ! などと確信を持って断言したりはしない。静的で客観性のあるデータではなく、私たちは情緒的で主観に基づいた記憶やそれへの追憶でもって自分が何者かを決定付ける。

 思い出すという行為は鏡で自分の姿を見ることと同じだ。姿見に映った自分を見て己がどういう顔や体をしているのか私たちは日常的に確認する。それと全く同一の行為が追憶だと言える。自分の個人的な記憶をたどることで自分がどういった人間であるか絶えず私たちは確認しようとする。そしてそれは全く無意識に意図せずに行われているため私たちはそのことについて深く考えることは稀だ。

 過去とは言わば形而上の体なのだ。そしてそれは心許なく、実体のない記憶や主観に基づいて形作られている。形而下の肉体とはまた別種のそれを形作るために私たちは過去を必要とする。そしてそれは己が経験した感情や出来事を順序立てて並べた物語である。私たちのアイデンティティは映画や小説などの筋書きと同じようなコンテンツでしかないのかもしれない。