他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

無責任

 自分が自分の物ではないと、ふと気付いた。自分の所有物、自分の預金残高、自分の肉体と精神、そして自分自身の生涯も、全てが「我が物」ではないということに、何の脈絡もなく思い至った。そしてそれを肝に銘じ、腑に落としたときにこれまで生きてきて長らく感じていた重荷のようなものが突然なくなったような気がした。何もかも、背負うことも抱えることもありえはしないのだと思った。

 何かに対して抱く自分の物だという思いがシリアスな感情を生み出す。人間のあらゆる苦悩や葛藤は所有や帰属といった概念に端を発する。これはモノやカネだけではなく、自分の心身にも言えることだ。傷つくことや損なうことを極端に恐怖する私たちの背景にあるのは、肉体や精神が他ならぬ自分自身のものであるという前提だ。仮に私たちの体が完全に自分のものではないとしたら、たとえ四肢が切断されたとしても私達はそれを大事にはしないだろう。

 多くを手にするものは多くの苦しみを味わうことになる。掌中に収めた物にまつわるあらゆることが彼にとっての頭痛の種だ。それを失ったり損なったりすることは、身を切られるのにも匹敵する。だからその人は自分が獲得したものを必至に抱え込み奪われまいと守り続けるだろう。所有したものはそのまま自己の延長であるとも言える。彼にとって私有の何かを手放すことは自分自身が欠落することを意味する。

 逆に何も持たないものは、その時点で憂うことは何もない。その人物が自分の体や心についても「所持しよう」と固執していなければ猶のこと最高だ。真の意味で空手で、捨て身の人間はあらゆるものに執着することがない、というよりもできない。何故ならば、この世の全てが自分の物ではないのだから。自身の私物でないものがどうなろうと何故こだわったり気にかけたりできるだろうか。その境地に至った者は決して何物にも煩わされることはない。

 何かを自分の物だということには、実のところ何の根拠もない。何かを差して何故それが自分だけのものだなどと主張できるのだろうか。自分の体ですら例外ではない。両親が拵えた、更に言えば天から授かった代物でしかないのが私たちの肉体であると考えるなら、自分の体を差してこれが私だなどと宣言するのは身の程知らずもいいところだと言える。

 

 

 これまで私は、まずはじめに自分ありきという思いで生きてきた。自分という人間が確かにこの世に存在していると断じた。私は固有の肉体と精神を備え、己の主観に基づいた生涯を歩んで居ると確信した。また、様々な私有財産を所有しながら、有形無形の別なく様々な物や経験などを我が物にするために生きていると考えてきた。それが自明であり、疑いようもないと子供の頃から信じて生きてきた。

 私は「自分の人生」と「自分の未来」があると考えていた。「自分の時間」があり、「自分の機会」があり、それらを他ならない自分自身が所有しているのだと思っていた。それらは自分の物なのだから、絶対に無駄にしたり他人によって奪われてはならないのだという観念を、私はいつしか抱くようになっていった。

 それらの全てが「我がもの」だと見なすがゆえに、私はそれらを少しでも有効に活用しようと躍起になり、またそれが成就しなければ心の底から嘆き悲しんだ。私のものが損なわれ失われるのだから当然の反応だ。他ならぬ自分の、掛け替えのない自分の、時間、人生、チャンス……。それらが無意味に浪費されたり他人のいいように消耗されるなど、私には耐え難かった。

 私の労力、私の余暇、私が保有している人生の残り時間を如何に扱うかで悩んだ。なぜならそれは自分のものであるはずだから。私が体験する、私だけの人生は実り多く有意義で、心底納得でき満足のいくものでなければならない。何故なら自分の人生は私のものであるはずだから。我がものであるはずのものが思い通りにならないという苦しみを、私はこれまで生きてきて何度味わったか分からない。

 我が物なら我が意のままになるのが当然だと考えるのが普通の思考だろう。自分だけのものだから自分の意志が反映されないと不服に思う。 次第に私は行き詰まっていった。自分の意志が己の心身や自身の生涯に全く無効であるということを何度も何度も思い知った。自分に関する一切を我が物と見なす事それ自体が間違いだとようやく気付いたのはほんのつい最近のこと担ってからだった。

 

 私は私のものではなかった。自分の肉体、自分の考えや思い、生涯や人生に至るまで、本当は己に帰属するものではない。更に踏み込んで言えば、「我在り」と言う意識でさえも思い違いや誤謬の類いのものでしかない。

 個我や自我と言った代物の本質とは即ち不在であり、元来実在しない。それが何かを所有することなどできない。はじめからいない者が何かを指してこれは私のものだ、などと主張しても、そもそもそれは道理が通らない。

 固有の私が何かを私有している。もしくは肉体や精神、人生が自身に帰属しており、裁量や権利、義務を有するというのは一般的な者の捉え方や考え方ではある。しかし、それは単にみんながそう言っている、そう思っているというだけでそれについて証明する手立てなどありはしない。

 お前の人生だから自己責任だ、という言説が世間ではまかり通っている。私も生まれてきてからずっとそれを真理だと信じてきた。だからこそ私は自身の人生が首尾よく展開されてないことをもどかしく思い、憤り、悲しみ、悩み苦しんできた。だが、この生涯が「我が人生」であるなどと何を根拠に言えるのだろうか。

 確たる私が我がものとする人生、そして心身という幻想! それから解かれれば、人間は生における一切の義務や強制から罷免されるだろう。我が生涯は私のものではなく、それを所有し責任を負う存在としての自分も幻影にすぎない。そこまで思い至れば一体何を深刻に悩むというのか。頭を抱えてうずくまってみたところで、その頭部も丸めてみた胴体も、掻き乱された心ですらも、自分ではないのだから。かかずらっている諸問題もまた「私にまつわること」ではもうありえない。いや、はじめからそうではなかったが、それにようやく愚かにも気付いたというだけだ。

 

 

 それを否定できるのは、明確に自分の意志でこの世に生まれてきた人間だけだ。そんな人間が果たして存在するだろうか。生まれたい! という強烈な思いを抱き、満を持して母親の腹から出てきた者だけが「自分の人生」に責任を追うべきだ。しかし、私たちは誰もが皆、言うまでもなくそのようにしてこの世に生を受けたのではない。

 私たちは望んで生まれてきたわけでも、望んで死ぬわけでもない。そしてそれらの間の時間をどう過ごすかも、完全に己の判断や選択で決めることはできない。ならば、何故私たちの生は私たち個々人のものだなどと大法螺が吹けるのだろうか。そしてそれが私たちのものでないならば、それがどうなろうと私たちに責任はなく、それに何かを思う義務も毛頭ない。

 私たちは己の意志とは全く無関係な何かによって生み出された。そしてその何かとは不可知不可捉な存在であり、私達には想像すら届かない。それは古くから言われているような有り触れた言い方で呼ぶならば神仏か何かなのだろう。私は人間よりも高次な何者かの存在を信じなければ自分やこの世の様相について納得できない。

 全てを偶然の産物だと考えるには、この世はあまりにもできすぎている。何故私は「この私」でなければならないのか。なぜこの世界は「この形」でなければならないのか。どのように人間が生まれて生き、そして死ぬかを科学的かつ医学的に説明することは現代では容易である。しかし、それは「どのように」という問への答えであり「なぜ」の答えではない。

 私たちは何かによって創られたと考えるほうが自然だ。至高の一者、少なくとも人間よりは高次の存在の何らかの意図によってこの世があり、人が生まれてくると考える方が、全ては単なる偶然の所産だとするよりも遥かに筋が通っている。だから私たちの生は私達自身のものではないのだ。それが具体的に何者のどのような意志かなどは人間には知る由もないが、少なくとも私たちの心身や人生が我々の所有物ではないということだけは確信を持って言える。