書き捨て山

雑記、雑感その他

感謝

 ありがたく思え、と面と向かって言われたことがある。母親にも言われたし、昔勤めていた悪徳業者の先輩社員にも言われた覚えがある。複数人の他者から「お前には感謝が足りない」と言われると、もしかしたらそうなのかもしれないと自らを疑ってしまい不安になる。私は他人から受けた恩を仇で返す不徳の徒であり、断罪されるべき大悪党なのかもしれない。

 たしかに私は他人から受けた施しに鈍感な面はある。誰かに何かをしてもらったとしてもそれに全力で報い、その大恩を生涯忘れずにその人間に対して滅私奉公するという気概など私にはない。そのような私の気質を指して感謝が足りないと宣う御仁の言には、確かに一定の正当性があると言えなくはない。

 人間関係というのは金の貸し借りに近いと私は感じている。誰かに何かをもらったらそれと同等の別の何かをその相手に与えなければならなくなる。それはギブ・アンド・テイクの間柄であり、ある程度の強制力のようなものが働いている。そのギブが全く望まない、更に言えば有難迷惑としか思えないような代物であっても、それを供した者に私は彼が望む何かを差し出す必要が出てくる。ギブとテイクが明らかに釣り合っていなかったとしても、それに対して不満を抱いたり、異を唱えたりするならば即ち、「感謝が足りない」と評されることになる。

 私のような人間であっても、他人から良くしてもらえば有り難いという気持は湧く。しかしどうやら世間においては、私の内的な心理現象としてのそれだけでは感謝であると見做されないらしい。あれだけしてやったのだからと、ある者は私に献身を強要する。これだけお前のために時間を割いたのだからと、ある者は私から大金をせしめようとする。私がそれを拒絶したり、喜んで相手の意に沿わないければ、彼らは私を忘恩の徒として糾弾し延々と攻撃する。

 金貸しの方が余程良心的だ。何故なら銀行やサラ金闇金に至るまで、彼らは基本的に受け身だからだ。頼んでもいない、貸してほしくもないという状況において彼らが出る幕はない。彼らは飽くまで頼まれてはじめて金を貸す。そしてそこから合法違法、正当か不当かは別として彼らはテイクを要求してくる。しかし、前述のような「人間関係」における雑多なギブ・アンド・テイクの場合、願ってもいないものを強引に寄越しておいて、テイクを当然の如く要求するのだ。どちらが悪辣かは明白である。人とのかかわり合いにおける、最も理不尽で納得がいかない様相がまさにこれであり、私はそれに難色を示すから恩知らずで感謝が足りないなどと言われるのだろう。

 

 

 そもそも感謝とは一体なんだろうか。単に有り難いと思い、ありがとうございますと言い頭を下げるだけでは十分でないと世の人々が宣うなら、ならば感謝とは何なのかと逆に尋ねてみたい。あなた達は他人に一体どのような要求をしているのか。私が何を、どこまで差し出せばあなた達は満足するのか。単純な疑問や興味から、一人一人に問いてみたい。

 結局のところ、相手に向かって感謝しろだの感謝が足りないだのと平然というような人間は、命がけで自分のために尽くす恭順的な奴隷がほしいだけなのだと私は喝破する。母がいつか私にそう言ったのは、有り体に言えば私が彼女にとって理想の息子としてふさわしくなく、望んだ通りに育たなかったということでしかない。確かに母は私を育てるのに多大な金銭と労力をドブに捨てたのだから、そのような不満を吐露する権利がもしかしたらあるのかもしれない。だが、問題は単なる他人共だ。

 会社での人間関係で感謝を無理強いするような者にはゆめゆめ警戒しなければならない。私は身を以てそれを知り、今もそれを肝に銘じている。私に何かを与える人間は飽くまでそれを撒き餌として私に与えているのであって、その先にはその代償を私が支払わなければならない。そのような前提で彼らは何かを私に与える。

 だが、他人の善意や懇意の背景にあるのは大なり小なり何らかの思惑を孕んだ取引であることがほとんどだろう。金が絡んだやり取りならば、等価かそれに近い取引が成立するかもしれない。しかし、金が絡まない人との関わりは金銭という指標がない曖昧な取引が展開されることが多くなる。

 ギブとテイクが完全に1対1であれば、私も不満や文句は言わない。しかしある者が1のギブ、それも私が願っても望んでもいないようなものを一方的に与えておいて、その見返りとして10や100、あるいはそれ以上のテイクを要求してくるということがこれまでかなりの頻度であった。そしてそれに対して私が拒否したりテイクを出し渋ったりすれば、そういった手合いは決まって言うのだ、「お前には感謝の気持ちがないのか」と。

 

 とどのつまり、感謝を要求または強要する人種は自分が他人から何かを掠め取るための大義名分が欲しいだけだ。単純に強奪したり騙し取るのではバツが悪く、自分が悪人という立場になるのは避けたい。だから誰かから何かを取る際に「感謝」という行為が伴っていることを確認し、自分がやっている行為を当人の中で正当化する。人間同士における感謝などとは一皮むけば、そのようなものではないだろうか。

 翻って私は誰かから感謝されたいなどとは生まれてから一度も思ったことなどない。自分が何か善行を行ったとしても、それは自分がやりたいからそれを施したまでで、それが完遂されればそれで終わる話だ。施した相手が仮に有り難いと思ってくれればそれはそれで結構なことだが、相手の気持などせいぜい副産物的なものでしかないと私は思っている。

 だが、そういった考えは世間一般においては主流ではないようだ。世の大半の者たちは、与えれば何かの見返りがあって然るべきだと考える。彼らはそれがまるで物理法則の作用と反作用のように、疑う余地のない心理・原則の類いだと信じ込んでいる。そして彼らは思惑通りの結果が得られなければ憤る。あれだけしてやったのに、恥知らずだの恩知らずだの、感謝の気持ちを知れなどと私に向かってあらん限り罵る。

 迷惑千万だ。仮に私が施しを乞い願ったというのならばまだ話は分かる。私が望んだことを他人が叶えてやったというならば、私にはそれに報いる義務が発生するだろう。彼のために私はできるだけ多くの金や時間や労力を割かなければならないだろう。しかし実際は、私は望んでもないものを寄越した他人から感謝を強要される。そしてさらにその先にあるのは、無償の奉仕や献身といった恭順的な奴隷になることへの無理強いである。感謝しろ、と言い立てる者は畢竟、その最終的な目的のために私に一時的に何かを、しかも私が望んでもいないものを与えなに過ぎない。

 代償を取る前提で与えるなら初めからそう宣言するべきだ。契約書の一つでも交わして、お前を思いのままに使役し、しかも従順さや崇敬の念までお前に要求すると、明言すればいい。それを承知の上でその人間と私が関係を持つか断つかを決められるようにするべきだ、本来ならば。厚意や温情、感謝といった美辞麗句によって糊塗された略奪、搾取、瞞着行為に過ぎない自分の悪行を正当化するまどろっこしさには心底辟易させられる。

 

 

 人間のあらゆる行為は打算に基づいた取引でしかない。見返りや返礼を期待ないし前提として、他人に何かを施すのは邪悪だ。それは与えたという事実を根拠にして、それよりも多くの何かを相手から奪い取ろうとする試みでしかない。平然とそれを行う者を私は何人も見てきたし、またそういった手合いに身も心も尽くさなければならなる羽目になったこと多々あった。

 恩や感謝といった言葉は欺瞞でしかない。それは自分自身にも他人にも言えることだろう。見返りや対価を要求するならば、与える前に言うべきだ。どれだけ美名を冠し言い繕ったところで、わずかに与えて別の多くのものを他人から掠めようという魂胆は私のような愚物ですら見透かせるのだから。

 逆にこれは自分自身への戒めとしても言える。他人にどれだけ尽くしても、見返りを求めるのは醜悪でしかないと肝に銘じるべきだろう。私の心中にも、これだけしてやったのに、という思いがないではない。人間として正常な思考なのかもしれないが、それは礼賛されるべき情動ではないだろう。