書き捨て山

雑記、雑感その他

巧くやらない

 何かにつけて首尾よく見栄え良くしようとしてきたのは、俺の人生における大きな間違いだった。このブログに上げる文章ですらそうだ。これはもとより、文章力を向上させるというただそれだけのために始めたことだ。クオリティや内容の良し悪しなど本来はどうでもよく、誤字脱字も問題にしないという決まりを定めて始めたことでしかない。

 それがどういうわけか、俺は枝葉末節や文章の具体的なディティール荷室ように拘りだした。これは大変良くなく、俺は自分が日課にしている作文を次第に面倒くさく思うようになっていった。辛うじて習慣化はされていたものの、記事の出来不出来に拘泥するあまり一日における相当な時間や労力を割きすぎ、他のことがままならないと言う有様に陥ってしまったのは、我ながら極めて愚かなことだと思う。

 このブログは一円にもならない。また、俺の他人や社会から見た評価や値打ちがここに上げた文章の如何によって左右されるものでもない。それであるにもかかわらず、俺は兎に角正しい文法で実のある内容を著し、あわよくばアクセス数なども可能なら増えれば望ましいなどと浅はかに願うようになっていった。元来単なる文章を書く習慣づけや練習のためのブログであったのに。

 ブログに限らず、これは俺が具有しているとてつもない悪癖の一つだ。何かにつけて巧くやろう恥をかかない成果を出そうなどと欲をかき、結局自縄自縛に陥るという馬鹿げた醜態を晒すのは、これで何度目になるだろうか。人生でこれまで行ってきた様々な事柄に共通して言えることで、その愚をここでもまた犯した。文章の巧拙などよりも、その思考パターンから脱することができない自身の性分をこの上なく恥ずかしく思う。

 他人から賞賛されるまではいかなくても、恥をかかずに済むようにしようなどという思いが、俺の心にはとてつもない桎梏となっていた。そのことはこれまでに何度も自覚する機会はあったが、それについてはどうしても改めることができないでいた。無論、結果や成果が問われる局面においては己の仕事を及第点の水準にはしようと試みるのは何も悪いことではない。しかし、そうしなければならない場面は人生においてはそう多くはなく、無論ここで晒している作文の質などは言うまでもなくそれに該当しない。

 

 

 この我が邪悪な気質は畢竟、子供の頃から受け付けられた強迫観念に端を発している。俺の両親は辺境の貧しい人間であった。俺は貧困の只中に生まれ落ち、社会の底辺として生き、死んでいくように運命づけられて教育され、躾けを受けてきた。貧苦にあって最も忌むべきことは何か。それは失敗である。とにかく両親をはじめとした俺の周りの大人達は、俺が間違ったこと、馬鹿なことをしでかさないようにということを第一義としていたように思う。

 俺は個人的に、人生における豊かさの指標とは、生涯で何度失敗が許されるかどうかによると考えている。そのような観点で言えば、貧乏な生活においては些細な失敗や損が大事となるために、失敗が許されず、それによって生じる不寛容さや焦燥さを常日頃感じて生きなければならない。要するに貧しさが失敗を過剰に恐れる精神を生み、それにより俺の一挙手一投足を縛り付けてきたように思う。

 父も母も、俺の些細な過失や失言を逐一あげつらいながら徹底的に追求した。それが彼らにとっては俺に対する当然の躾であり、人間としての正しい行為であった。俺は両親のそういった態度や言動が全て無謬なのだと鵜呑みにし、自分があらゆる一切を卒なく無難に、正しく執り行えないことに罪悪感を抱き、どうにかして全てに対して上手くやろうと強迫観念を持って臨むようになっていった。

 兎にも角にも俺はしくじるのが怖かった。たとえどれだけ些細なことであっても、自分が何らかのミスを犯し、他人に遅れを取ったり他人と悪い意味で異なる様相を呈するような有様になれば、それはもう一巻の終わりのように感じられた。損をすることや間違うこと、良い成果が得られないときや他人に遅れを取ったりしたときは、両親をはじめとした身近な人間に完膚なきまでに責め立てられたのだから無理からぬ事ではある。

 俺はそういった思想に骨の髄まで染まってしまった。それが重ねて述べるように俺の人生を大変大きく損なうこととなった。改めて考えれば始めから最後まで一回も失敗せずにやりおおせることなど稀だ。まして子供や若い内なら、むしろ積極的にミスをして学習すべきであるにもかかわらず、俺は真逆の考えを植え付けられ、愚劣にもそれを疑うこともなかった。間違いを犯す度に俺は過剰に悔やみ、例えつつが無くこなせたとしても蹉跌の可能性に常に怯え続けた。

 

 自身の愚昧な性質により、俺は随分苦しめられてきたように思う。まず第一に、しくじりを恐れていては思い切ったことは何一つできない。子供の頃から極度に失敗を咎められ、恐れてきた俺は、興味があることややりたいことなどは一切考慮せず、親や周りの人間が勧めたり強要することをただ唯々諾々と行う愚物に成り下がった。仮に上手くいかなくても、他人から強要されたことならばまだいいわけが可能だからだ。

 親などの自分から見て権威がある人間を起こらせたり失望させることを何よりも俺は恐れた。だから自分にとってやるべきことや望ましいことなどは何もせずにただ人生を無駄に浪費してしまった。それがどれほど無意味で、また恥ずべきことかをようやく自覚したのはつい最近のことであり、それについはもう悔やんでも悔やみきれない。

 恥をかくのが恐ろしかった。自分が劣っており価値がないことが露呈するのが耐え難かった。そのような臆病さが俺の精神を束縛し、人生の最も貴重で重要な時期に怖気づいて何もできなくさせていたのだろう。これはこの上なく愚かで勿体無いことだと今頃になって思う。

 それというのも元を正せば、貧しい環境で誤った考え方を刷り込まれたのが原因である。失敗したら、恥をかいたら、もう取り返しがつかない。それはある場合においては間違ってはいないのかもしれないが、どのような局面においても馬鹿正直にその考えに固執し、凝り固まってしまっては何もできなくなるのは必定だ。

 貧しさが失敗を恐れさせ、それが羞恥心などの副産物を生み出しながら俺の心を縛り付けてきた。それは人生や人間というものについての完全な誤謬でしかなく、それによって生涯における機を逸し、人生を台無しにしてしまったのは後悔してもしきれない。

 

 

 結局のところ、俺の人生は貧者の人生哲学に支配されていた。貧困とはある種の哲学や伝統と化して人間に付き纏う。貧しさは下層階級に属する者にとっては原理であり法則である。それに基づいてあらゆる思考や行動が規定され、哀れな人々の人生が確定されていく。つまり、私はその陥穽に陥ったのだ。

 恥や恐れのために臆してしまい、何もしないことが一番の悪だと思う。やりたいことや為すべきことを蔑ろにし、責められないために無難に選び、こなそうとするなど愚の骨頂だろう。それにより、生きる上でのあらゆる言動が愚考でしかなくなり、またそれによって得られるものなど本当に微々たるものだ。

 俺の人生は最早どの道取り返しなどつかない。俺は少々、気づくのが遅すぎた。できるなら小学生からやり直したい気分だ。仮にもし、人生を降り出しに戻せるならば、親や周りの者どもの目など一切無視し、ありったけの過失と蹉跌、失言やしくじりのオンパレードを天下にさらけ出したい。永久に残る大恥をこの世に刻み込んでみたい。

 俺の人生がもう土台からして碌な人生でないなら、上手くやれないことなど何だというのだろうか。今この瞬間からでも遅くはない。これの文章を書きながらでも首尾よくやろうだとか巧くやろうだとか一切考えずに、拙い文章を公にさらけ出すことこそを目的・目標にしてやりたい思いだ。

 自分が為すことの品質に気にせず、本当に、ひたすら、ただやりたいものだ。笑われても、バカにされても、恥をかいても、屈辱にまみれても、それでもやりたいことはあらん限りやりたい。今は単純にそう思っている。この思いが生涯を閉じるその瞬間まで、冷めないことを願う。