書き捨て山

雑記、雑感その他

信じること

 子供の頃好きだった女がカルト教団の信者になっていた。それにまつわる思い出は、俺の人生においてかなり嫌な部類に入る記憶の一つだ。もう何年も前のことではあるが、そのことについて今日になって突然前触れもなく思い出した。その時俺は高校を卒業して上京を控えていた。そんな時分で色々と準備をしている最中にその女から突然連絡があり、俺は意気揚々と誘われるままに指定された場所に出かけていった。

 その女は俺の幼馴染だった。小学校5年まで同じクラスで、かなり親しくしていた思い出がある。休み時間などには一緒にリコーダーを吹いて遊んだりもした。俺は小4ぐらいの頃から完全に彼女を異性として意識していて、初恋だった。他の男子児童は彼女のことをどう見ていたかは知らないが、俺にはクラスの中で一番可愛い女子だと思っていた。

 ところが彼女は突然転校してしまった。その時に送別会のようなことをやったような記憶もない。本当に突然彼女は俺のクラスから姿を消してしまった。転校して以降、彼女とは縁が切れてしまいその後の消息は全く分からなくなってしまった。そんな彼女が東京へ発つ直前に俺に電話で連絡をしてきて、しかも会いたいなどと言うのだから俺は完全に舞い上がってしまった。

 市内で一番大きい百貨店の地下にあるフードコートに呼び出された俺は、久しぶりに再会した彼女にある違和感を覚えた。子供の頃の記憶の中では、この上なく可憐で美しかったはずの彼女は、どこか貧乏臭く幸が薄そうな雰囲気を身にまとっていた。それでも昔の思い出話などに花を咲かせるのは楽しく、大人の女になった彼女に俺は男として惹かれたりもした。だが、近況の話題に移りだしてから雲行きが次第に怪しくなっていった。

 彼女は顕正会の会員であった。当時はその宗教について全く知識はなかったが、話を聞いているだけでいわゆる普通の仏教とは異なる代物だということは察しがついた。その時の俺の心境はまさに天国から地国に落とされたような気分だった。自分のことを好いていてくれたとばかり思っていた俺は、その女の魂胆が露呈した瞬間に精神を酷く痛めつけられた。彼女は単に宗教活動でノルマを達成するために俺を勧誘したにすぎなかったのだった。

 言うまでもなくその女とは関わりを絶った。その後何度か彼女から携帯に着信があったが全て無視し、めでたく完全に絶縁となった。初恋だった相手に食い物にされかけたという苦い追憶は、現在においても俺の生涯において指折りの屈辱的な体験であった。

 

 

 なんでよりにもよって、そんな怪しい宗教なんかに? 当時もそう思ったし、今でもその疑問は健在だ。浅井昭衛という胡乱な人物にその女は心酔しきっていた。俺は男としてその老人に対して嫉妬心すら抱いた。眉目秀麗でも容姿端麗でもない、脂ぎったただのオヤジが成し遂げた偉業の数々を恍惚とした表情を浮かべながら彼女は俺に話して聞かせた。俺にはその教団のトップもその団体自体も、何故彼女が信奉できるのか不思議で仕方がなかった。

 俺は簡単に何かを信じたりはしない。もちろんカルトなど以ての外だ。そんな俺からしてみれば、顕正会だろうが創価学会だろうが日蓮正宗だろうが何であれ信じるには値しない。俺は直感的に至高の一者と呼ぶべき何かについては確信があるが、特定の宗教などに肩入れしようなどとは毛ほども思わない。それは神や信仰といった事柄に限らず、この世のあらゆる物事についても同様である。

 無思慮無批判に何かを信じたり受け入れたりするのは愚の骨頂だ。それは日常的なあらゆる事象に敷衍して言える。無責任に何かを信じて身を委ね、騙されたり利用されたりしていることが露呈してから大騒ぎするのは滑稽ですらある。確証や担保があってはじめて人は何かにたいして信用すべきであり、それが得られないあらゆる主張や言説には不信を貫くのが妥当な姿勢だと俺は考える。

 会社でも宗教でも、あらゆる組織や人間関係を土台にしたやり取りであろうが例外ではない。親しかろうがそうでなかろうが原則、他者には不信の一念を携えて対峙すべきだ。だが、騙されてもいいと思えるほどの相手であるならば話は別だ。それほどまでの存在なら、彼または彼女への思いは最早信用ではなく信頼と呼ぶべきものだろう。本当の意味で何かや誰かを「信じる」ということは、そのために自分がどんな目に遭っても甘んじて全て受け入れるという覚悟が伴わなければならない。そのような関係は極めて貴重かつ希少であることは言うまでもない。

 そしてこれもまた言うまでもないが、それはまず生じない現象・事態である。ただの有り触れた会社をはじめとした関係において、前述の意味における信頼というものが芽生えることは基本的に有り得ない。それが容易く生じるのだという前提で自分と関係を結ぼうとし、あまつさえ「俺を信じろ」などと宣う輩には絶対に心を許してはならない。

 

 自他共に、軽々しく信じるだの信じろだのと言って憚らない連中には警戒して然るべきだ。往々にしてその手の人種は、信じるということの重さを知らない。だから簡単に騙されるし、また他人を嵌める側にもなりうる。被害者になるにしろ加害者になるにしろ同じことだ。正常な感覚があれば、人は簡単に何かを信じたりはせず、それを要求したり強要したりもしないだろう。

 信じることは明け渡すことでもある。仮にもし誰かを信じるなら、極端な話その人物にどんなことをされても、自分はそれについて文句を言いません、と言う表明だ。彼が自分から何をどれだけ奪おうとも、彼が自分をどれだけ痛めつけ、殺したとしても、私は全てを甘受しますという宣言だ。「信じる」というのは軽薄に口で言うにはあまりにも重い決断であると言える。

 何を信じるにしても同じことだ。それについての完全な捨身こそが信頼だ。その覚悟が伴っていないにもかかわらず、何かを信じていいはずがない。また、それほどの心構えが出来ていない相手を信じさせようなどという試みは、単なる誤魔化しやペテンにすぎない。信じる薄ら馬鹿も信頼を無理強いする悪人も、同じ意味で度し難い。

 冒頭で触れた例の女にその決心があるだろうか。無論そんなものはあるはずがない。俺は彼女の話を直に聞いたから確信を持って断言できる。浮薄な動機によって彼女は顕正会を盲信していた。単に自分の身にいいことがたくさん起こった、浅井様がこれほど正しく素晴らしい予言をしたなどといって彼女は己が属している団体や浅井昭衛の正当さを説く。しかし、彼女が何らかの形でそれらに裏切られたとき、彼女は泣き言を言わず、不満を抱かずにいられるとはとても思えない。

 彼女は信じることの意味や重さを理解していないだろうし、それは彼女に限った話ではない。その重大さや厳粛さの片鱗にさえ想像が届かないような人間たちが世間には溢れ返っている。そしてその人種は先に述べた通り被害者の側にも加害者の側にも多数存在し、双方とも社会全体に害悪をもたらし続けるだろう。

 

 

 どんな場合であれ、安易に信じるのは浅薄で無責任だ。それを弁えることができない連中が無闇矢鱈に信じますだの信じなさいだのとやっているのは、傍から見ているだけでも反吐が出る。万死に値すると言っても過言ではない。

 他人に自身への信認を無理強いするような者を、俺はこれまで生きてきて幾人も見てきた。彼らは自分が詐欺師で邪悪な人非人だとは夢にも思っていない。自分がどれだけ理不尽で大それた要求を相手にしているか、連中は知ろうともしない。そういった手合いは自分自身を顧みる能力もなく、死ぬまでこの悪行を繰り返すだろう。

 例の女はそれとは真逆だが、悪質であるという点で同類だ。彼女は多大な金を顕正会に貢いだだろうし、俺にやったような布教を始めとした様々な宗教活動に精を出し、時間や労力を無意味に費やし、若く貴重で価値ある期間をドブに捨ててしまったことだろう。それは自業自得であり、同情の余地は全く無い。俺のような人間を自分と同じような境遇に引きずり込もうとしたのだから。

 両方とも自分が何をやっているか、どこが間違っていてどのような点で悪いのかを全く分かろうともしない。自分のことを相手に信じさせようとする者は盲信した人間を都合よく利用する。容易く相手を信じてしまう者は自覚もなく多くのものを喪失し、搾取されている。両者とも改めることは永遠にないだろう。

 少なくとも俺はどちらにも与しないし御免被る。信じるバカも信じさせたがるアホも俺の周りには存在していて欲しくない。また、俺は生涯考えなしに何かを信じたりは絶対にしない。仮に何かや誰かを信じることがあったとしても、それはそれのためにどんな憂き目でも見てやろうと腹をくくった場合のみだ。信じない、不信、ただそれだけ。それは森羅万象の一切に対するニュートラルな見解だ。