書き捨て山

雑記、雑感その他

満足と不満

 満足したいとずっと思って生きてきた。俺は生まれたときからずっと不満や不服を抱え続けていたと言っても過言ではない。生まれもった境遇や自分の肉体や精神、身の回りを取り巻く環境や人間関係の全てが俺にとっては気に入らなかった。不遇をかこつことがなかった日が、俺の生涯においてほんの一日でもあったかどうかさえ怪しい。子供の頃からずっとそうであったし、大人になった今もそれは全く変わっていない。恐らくこれから先も延々俺は満たされることはなく、死ぬまで文句ばかり垂れていくのだろうか。

 不満を抱きながらも俺は、ずっと満たされた状態について夢想してきた。自分が望ましい存在となり、好ましい人生を謳歌し、願った全てが叶い、欲しいものが全て掌中に収まるような、そんな浅はかな空想を後生大事に携えながら今日まで暮らしてきた。華々しく輝かしい未来や将来を思い描きながら、現実から目を背け偽りの楽観により己を慰撫しながら、どうにかこれまでやってきた感がある。

 しかし、歳を重ねるごとにそれが苦しく思われてくる。抱えている不満よりも、荒唐無稽な夢物語の方が、かえって重苦しく思われるようになってきた。ありったけの夢や綺羅びやかな希望と自分が普段見を置いている境遇や現状と言うものの対比をありありと自覚する度にポジティブな言説やイメージが逆に俺を痛めつける結果となる。望みを持つにはもう歳を取りすぎたのかもしれない。

 叶わなかった夢や希望の一つ一つが毒になり俺の胸中に留まりながら、心身を冒していくのを感じる。もっとやりようがあったのではないか。なぜあのときもっとああしなかったのか、と届かないバラ色の人生が何故実現しなかったについてあれこれ思いを巡らせ、それにより俺自身がどんどんと追い詰められていく。子供の頃になりたかった職業を思い出しながら、自分が従事している卑しい仕事を顧みる度にこの上なく惨めな気持ちになる。

 叶わない願いや見果てぬ夢が俺に焦燥や絶望の念を惹起させる。遠い昔に諦めた一つ一つの願望が、忘却の彼方に押しやったはずのどす黒い欲望が、脳裏や心中に渦を巻き発作的な衝動を起こさせる。自分が直面している現実の生活にいたたまれなくなり、不意に大声を上げて発狂したような素振りの一つでもしてみたくなる。満ちないことは俺にとって常に問題であり俺を苦しめ続けたが、それから如何に解放されるべきだろうか。

 

 

 第一、なぜ人は満たされなければならないのだろうか。自分が満足してしかるべきだとか、そうでなければならないという前提を元にしてあれこれ考えたりするから人間は一々辛い思いをするのではないだろうか。どのような状態をもって満足するかが問題なのではなく、自分が達成するべきハードルを設定することそれ自体が問題であり、苦しみの源であるように思える。

 どのような不満を抱いているかは問題の本質ではない。成就していない夢があるだとか、目下必要なものが足りていないだとか、多種多様な不平不満というのは誰しもあるだろう。しかし、その詳細がどのようなものであり、またどのような要因により生じているかということが悩みの種になるのではない。単に何かがない、足りない、達していないという事実それ自体が人を苦しめるのではない。

 本当に俺の頭を悩ませているのは不満ではなく、「満足」や「幸福」という概念の方であった。荒唐無稽な絵空事、手前勝手な欲望の発露としての将来像や自画像の方が、現状よりも俺にとっては常に足かせやムシロのような機能を果たしていたということに気がついた。人間は満たされないから問題なのではなく、満たされた状態への執着や満たされなければならないという強迫観念によって苦しむ。

 足りないことが問題だとこれまで認識していた。だから何かを得ることで問題が解消され、満足感や幸福感に浴することができると考えていた。これはたいへん大きな、また根本的な謬見であった。実際には前述の通りまるで正反対なのだった。希望や大願といった一見前向きで歓迎されるべき代物が俺を焦らせ、追い詰めていく。こうであることが望ましいのに、こうであるはずなのに、こうでなければならないのに……。といった考え、つまり自分の未来への夢や明るい展望それ自体が俺をずっと責め苛んできた。

 腹が減っていたとする。その状況において、俺は単に食うものや食事に割く時間がないだけだ。それは単に足りていないという事実だけがそこにあり、死に直結するほど切迫していなければそれは「ああ足りないなあ」で済む話だ。足りないことは足りないとだけ認識するならば、それ以上事態は進展することはない。

 

 ところが、もし俺がある想念を抱けば事態は一変する。「俺はいつも満腹であるべきだ」と考え、その状態を指して満足する、できると考えれば俺は悩みを抱えることになる。不足は単なる客観的な事実では済まされず、満足がいく状況への夢想が俺を在らぬ方向に駆り立てることになるだろう。

 希望は現状を否定することになる。希望、つまり満足が行く状況こそがあるべき姿で、現実の自分がそれに到達していないと考えてはじめて人間は苦しむ。つまり、足りないことが悪いのではなく、満足できる状態への憧憬こそが苦悩の源であった。

 そもそも、人間には本当の意味で満足できることなどあるのだろうか。これ以上何ものも必要とせず、極端な話もう死んでもいいと思えるほどの充足感や満足感を味わうことなどあるだろうか。もしそれがあり得たとしても、それは日常的には早々起こり得ない極めて稀な体験や感覚なのではないだろうか。

 生きる限り人は大なり小なり、またはその仔細は別として常に何かが足りず、股かけているのではないだろうか。ならば不満や不足というのは本来あるべき状況なのだと考えるほうが健全でありまた自然だと思う。その本来的に然るべき状態、欠乏をそのまま納得し肯定してしまえば、つまり満足という概念を唾棄すれば生きる上での問題がなくなる。なくなるというよりも始めからそれはなかったのだということになる。

 ある状況を持って妥協することはできる。しかしそれは本願の成就にはなりえない。知足という言葉があるが、それは本当の意味で満足するのではなく、自己正当化やごまかしにすぎないだろう。そのようにして本心を偽って生きるよりも俺は、不満は不満、不足は不足、欠乏は欠乏としてはっきり認識し、自分が満たされていないという状態を明らかにし納得し、それ自体に「然り」と言いたい。その方が潔いと思う。

 

 

 人間は妥協することはあっても満足することはありえないと思う。ありえない、起こり得ない状態への渇望やそれへの志向、ひいては強迫観念は人間にとって苦にしかならない。満足した自己像、思い描いた理想像といったものは実際は決して到達することができない幻にすぎない。人という存在は満たされることはないと断ずる方が賢明だろう。

 人は本来満ちないものだが、その一事に妥協でもって望むことは当然本意ではない。先に知足という言葉について言及したが、俺はこの言葉が好きではないし参道もできない。俺にとってそれは、本当は満足していないのに無理やりこのくらいで充分だと自らを強引に説き伏せて充足感を捏造しているようにしか感じられない。

 別にいいではないか。足りないこと、満ちないこと、達していないことの一体何が悪いというのか。それが問題となるのは、満足という概念があってのことだ。ならばそれこそが問題の本質であり、欠如や払底にその原因があると見なすのは誤った考えだと言える。

 無欠や会心への執着が人を不幸たらしめる。成功、充溢、達成、調和……。どのような耳障りのいい言葉で言い表したとしても、それは苦しみの種となるだろう。満足という概念があってはじめて人はそれに達せられない気持ちを抱く。そしてそれこそが人生に辛苦をもたらす。満足できるかどうかではなく、それ自体が我々の苦しみの根だ。

 思い通りになるべきだなどというのは卑陋な考えだ。そうでないときに自分や他人、ひいては何かを責め立て問題視し、憤り傷つき、悲しんだり憂いたりするのは単に愚劣なことだ。偽りの知足や妥協による自己欺瞞も正しくない。俺にとって必要なのは満ちないことを明らかに認め、それを肯定することだったのだ。