書き捨て山

雑記、雑感その他

不安であり続けること

 安心したいとずっと望んできた。子供の頃から現在に至るまで、俺の行動や選択の根底にあった思いというのは、とどのつまりそれへの至高であったように思う。ただ安逸の中にありたい、いかなる場面においても安寧、安全が保証された範疇の中で行きていたいという強い欲求があった。穏やかな精神をどれだけ維持するかということが俺にとっての最大の目的であり、それを達成するためだけにどのような瞬間でも腐心してきた感がある。

 逆に俺は不安を嫌った。心のなかにさざ波が立つようなことは、無条件に厭うところがあった。快感や楽しみなどといったことは別として、少しでも不快な感情は基本的に悪いものとして徹底的に避けるように心がけてきた。もし、自身の内面にそれがほんの少しでも惹起するようであれば、その原因を探し出してそれを取り除くか避けるか、もしくはその感情そのものを滅却すべくあらゆる試みをした。

 安心したい、不安でいたくないという思いこそが俺にとっての最も悪い性向であったように思う。安心への志向と不安からの逃避が俺の精神を束縛し、それらへの願いが桎梏となり俺を臆病者にしていたのだと今になって気がついた。精神を安定させるためのあらゆる努力は完全に徒労にすぎず、俺から意欲や度胸などといった生きる上で不可欠な要素を欠落させていたのだ。

 安心できないことの一体何が問題だというのか。精神が安定しないことで明確な不利益や不都合があるという場合であれば話は別であるが、そのような状況というのはあまり多くないのが実際のところではないだろうか。それを問題視することで本来ないはずの障壁を自ら作り出し、自分自身を縛り付けて何かをすること、し続けることを断念せざるを得なくなっていたようなきらいがある。

 世間一般においても不安という感情が肯定されることは稀だ。それが通念上主流の考えだから俺のそれに染まりきっていたように思う。だが、他人の多くがそう思っているから自分もそれに倣おうというのは愚かであるという他はない。自分にとって最善の考えを持たなければならないのに、それを放棄して別の人間が主張する意見に簡単になびき、俺は不安という感情を徒に忌避し、無用なことに固執し、またしなければならないことを怠ってきたようなような気すらする。

 

 

 安心は現状維持によってもたらされる。つまり、なにもしないか、これまでにただ漫然と行ってきたことを踏襲して反復するだけで簡単に達成できてしまう。安心・安定・安逸などといった精神状態を志向するのは実のところ極めて容易であると言える。それらを達成するために必要な労力や精神的な負担といったものは危険を犯すことに比べれば遥かに少なくて済む。

 見方を変えればこれは単なる怠慢であると言える。安心したいという願望の根底にあるのは単なる怠惰への欲でしかない。人生におけるあらゆる不確定な不安要素を取り除くならば、究極的には家に引きこもるしかない。どこにも行かず、何もしなければあらゆる面倒事や心配事は起こりようがない。極論に走っているきらいはあるが、安心への追求とは即ちそのようなものであるように思う。

 引きこもりどころか、究極的な安定状態とは言ってしまえば死である。完全な意味で何も起こり得ない状態に身を置きたいならば、更に極端な話になるが死んでしまえばいい。自殺への欲動というのはとどのつまり、極限までの安定志向だと考えて差し支えないのではないだろうか。死と引き換えに人は、ある意味永遠に安心できる世界に常住することが可能となる。その一事はある者にとっては命を捨てるほどの価値や魅力を感じられるのだろう。

 不安から逃れるためには、死という生物としての最大の危機ですら何とも思わないのが人間という種の不可思議なところだ。俺も学生時代においては自殺したくて仕方がなかった。なぜかと言えば、自身の将来について極めて悲観的な考えにとらわれていたからだ。自分の未来に対する不確実性や不安定性といったものに思いを馳せ、いっそ死んで楽になれたら、などと愚かしくも夢想したものである。

 不安とは言い換えれば恐怖だ。どのような言い方をしてもそれが不愉快な感情にすぎないのは言うまでもない。しかし、それらから完全に無縁な状態とは先に述べたように死なのだが、それはある意味では絶対的な安全が保証された状態であるという考え方もできなくはないのだろう。不愉快を極端に嫌った先にあるのが死というのは皮肉な話であるように思える。

 

 死なないということは要するに先に述べたような不愉快な感情、不安や恐怖といったものをある程度許容することであると言えるのではないだろうか。生きるということは常に不確定な要素を孕んでいるのであって、大なり小なりリスクを犯さなければならないということでもある。生の本質とは即ち不安定なのであり、その対極にある死とは重ねて言うとおり安定なのだろう。

 死なずに安定した状態を維持したいという倒錯が俺をこれまで苦しめて来たように思う、それも無意味に。何より一番悪いのは、その本質に自身でも気がついていなかったということにある。本当の意味で安逸を志向するなら、速やかに自殺でもするべきなのだ。生きながら不安を取り除き、安寧の中で生きたいというのは、泥中にありながら服が汚れないように願うようなものだ。土台無理というよりも見当違いな欲求だと言える。

 死なないならば、たとえ消極的であっても生きることを自ら選んでいる。それならばその時点で不安を肯定しなければならないということになる。それが不愉快な感情であり、穏やかでないとしても生者というものは安心よりも不安を率先して選び、その感情やそれを生み出す状況に対して然りと言わなければならない。

 失敗するかもしれない、上手く行かないかもしれない。嫌われるかもしれない、損を被るかもしれない。それらへの不安を甘受することが即ち生きるということであり、誰にとっても人生の本質は受難である。それから目を背けながら生きながらえることは本来は無理な話なのだ。生きるならば、人は不安であり続ける必要がある。それから完全に解き放たれるなら、俺は人であることを放棄しなければならない。

 安心したいが死にたくもないという矛盾はどのような苦心によっても実現することはない。そしてその叶わない願望に囚われることで俺は無駄に悩んできたのだろう。究極的には生きるか死ぬかの選択は、不安を肯定するか否かということである。それに対峙することなくいかに安心するかということに拘泥し続けてきた俺の人生は正しく愚の骨頂であった。

 

 

 俺は安心できない状態を是としたい。これまではともかく、今はもう死なずに安心・安定したいなどという願いへの幻想を断ち切っている。不安であり続けることはまさに生きることなのだから。消極的であれ死なずに生きているのであれば、安心できないことを問題視することは誤りにすぎないと喝破しなければならないのだ。

 受動的または消極的な振る舞いは生きながらにして死んでいる。それは死にたくないのに不安と無縁であり続けたい気持ちの現われだ。本稿で幾度となく述べた通り、それは単なる生死への不見識でしかない。生きるならばリスクを冒し、安心できない状態に身をおくことを拒んではならない。

 安心や安定、もしくは精神的な救済といったものは誰にでもやがてはかならず訪れる、死として。それが待ちきれないのならば、自殺という選択肢も選ぶことは可能だろう。しかし、多くの人間はそれを選ぶことはない。にもかかわらず都合よく不安からは遠ざかりたいなどと考えるのは滑稽だ。

 恐怖や不安を常に携えながら生きなければならない。生ある限り、人に安楽は訪れないということを知らなければならない。それらの苦しみを甘受することが人生であり、精神的な苦痛を感じ続けることそれ自体が自分が生きているということの何よりの証拠となる。

 安心や安定など望むべくもない。生きるならばそれらへの望みを断つ必要がある。心中穏やかではない状態を問題視してはならない。それがどうしても受け入れがたく、嫌で仕方がないというのならば、万人に逃げ道は常に用意されている。その気になれば誰であれ死を選ぶことは可能なのだから、それはどうしてもという局面に至るまでとっておくべきだろう。また、それを選ばずに生き続けようとする限り、不安とは常につきものであるということは心に刻みつけておくべきだ。