壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

執着

 俺はかつて酒が手放せなかった。学生時代から約7年ほどに渡り、俺は殆ど毎日飲酒し続けた。酒を摂取するためだけに生きていたと言っても過言ではないほどに俺は雨の日も風の日も酒を飲み続けた。大学生活で気が滅入ったり将来を悲観したりした日も、社会で最底辺の職業を転々として暗澹たる未来に絶望した日も、あらゆる人間関係に倦んで全てから逃げ出したくなった日も、どんな時であっても成人して以降の俺の人生には酒は付き物で、俺は生涯それが続くものだとばかり考えていた。

 だが、現在は完全にシラフのまま生活している。かつては仕事中以外はどのような場面においても酒が手放せなかったにもかかわらず、その一点に限って言えば、俺はまるで別人のような暮らしぶりである。今の俺が仮にアルコールを口にすることがあったとしても、それは念に数回の機会飲酒の域を出ることは決してない。

 酒浸りの人生から俺がどのようにして脱したかは割愛する。俺が酒に溺れた詳しい原因やその背景、そしてそれからどのようにして脱却したかなどは本筋ではない。俺がこの稿で述べたいのは、人生におけるある固執や依存、こだわりなどについての所感であり、アルコール依存症を医者にも薬にも頼らずに自力で完治させたという話は別の機会にでもしたためるつもりである。

 何も酒に限った話ではない。俺は生まれ落ちてから今日に至るまで、実に様々なものに縋りながら命を繋いできた。それはある時はコンピューターゲームであり、ある時はテレビ番組、また別の時にはラジオ放送であったりもした。そして20代の殆ど全ての時間を酒による酩酊とその依存が占めた。それは俺の生涯においてかなりの割合を占めるが、それが全てというわけではない。

 アニメやゲーム、インターネットにのめり込むことも酒やドラックに溺れることも本質的には大した違いはないだろう。そのように考えれば、何かに拘泥し続けたという点において、俺は物心ついたときから何も変わっていない。現在は酒を飲んではいないが、このようにして毎日ブログの文章を書くことにある意味では依存していると言えなくもないし、インターネット依存症などという病気に現在の俺はそのまま当てはまっているだろう。何かに依存あるいは固執し、拘り続ける俺の人生とは一体何だったのだろうか、ということについて一考する。

 

 

 まず、俺は現実逃避したかった。そのために利用できるものなら極端な話、何でも構わなかったのだろう。子供の頃は酒を飲むことが許されなかったが、成人してからはそれを止める者がいなかった、だから俺は依存症になるまで安酒を呷り続けた。身も蓋もない書き方をすれば、ただそれだけのことであり、正しく三つ子の魂百までという言葉がそのまま当てはまる。

 俺は自分の人生が嫌だったし、自分自身が何よりも嫌いだった。家族をはじめとしたありとあらゆる人間関係がまるで針のむしろに座っているかのように苦痛だった。また、過去のことを思い出せば嫌な記憶ばかりが惹起し、未来を臨めば不安や絶望しか感じられなかった。俺は自分に与えれた当然の権利を行使するかのように酒や色々なものに縋った。

 程度の大小はあれど、何かに依存する人間は誰しも皆似たようなものだろう。人生や自分自身から逃れたく、距離を置きたいが為に何かに耽溺する。それにより一切を忘却の彼方に押しやることで安心感を得たいという真理がその背景にはあるのだと思う。我々は悲惨であり、またそれから脱却することも能わず、解放されることもないという事実に打ちひしがれる。

 救いを求める心が執着を生む。それはアニメ鑑賞でもインターネットでも本質的には変わらないだろう。どのような手段を講じるにしても現実逃避という目的は、少なくとも俺の場合には不変であった。なんであれ己から逃れるための行為に過ぎず、酒は数多ある手段の一つであった。身体的な依存性というものについては重大ではなかったように思う。

 どのようなものを用いるせよ、現実逃避というのは全く楽しくはない。楽しくて面白くて仕方ないというのであれば、酒だろうがインドア系の趣味であろうが俺は問題ないと思う。だが実際にはそうではない。現実逃避の為に何をやっていても、本音では楽しんではいない。必至に何かから逃れようとしている最中に、一体何を楽しめるというのだろうか。

 遊び呆け、だらしなくしているように見えて、当人は至ってシリアスな精神でそれに拘泥し続けるというのが病的なのだ。俺に飲み仲間や遊び友達などといった存在がいれば、まだ違ったかもしれない。現実にはそのような存在は一人もおらず、俺はひたすら一人で家にこもり、安酒をやりながらインターネットで何の足しにもならない動画や背信を眺め続けた。傍目から見れば怠けているようにしか見えないだろうが、俺自身としてはそれらは真面目で命がけな逃避行動であった。

 

 酔生夢死という言葉があるが、実際は酒でも何でも、言うなれば悪酔いしながら生き、悪夢の中で死ぬような感じだ。それに執着している状態は全く楽しくもなく安楽ではない。だが、それでもシラフで居るよりはマシであるかのように思えたし、酒以外のあらゆるものへの拘泥や固執もまた、それらがないよりはそれに興じている方が現実に直面するよりはまだマシだと思えた。

 しかし、実際はそうではなかった。言うまでもないことだが、何にどれだけ執着しても、俺の人生は全く好転することはなかった。インターネットなどの趣味には特に心身へのダメージはなかったが、酒害は歳を重ねる事に深刻なものとなり、俺を少しずつ蝕んでいった。そしてそれから目を背けたいがために俺は余計に酒に溺れる羽目になっていった。

 そこには救いはおろか面白みも楽しみも一切なかった。俺の生活は目に見えて荒廃していき、経済的にも困窮していった。酒とは直接は無関係ではあるが、アニメやインターネットにかまけることで俺は人生の貴重な時間や機会といった掛け替えのないものを計り知れないほどドブに捨てた。酒でもなんでも、何かへの執着や依存が俺の人生にもたらしたのはそれらのネガティブな結果しかなく、逃げることも救われることも一切なかった。

 身を滅ぼし、生涯を台無しにしたとしても、心底楽しみ、納得できれば俺はそれでも構わないのではないかと思っている。アルコールでもインターネットでも、依存することは一般的に悪いことだとされているが、真の満足があるのなら、俺はそれらを否定する必要はないのではないかと考える。しかし、俺の場合はそうではなかった。心身を損ない、人生の機を逸し、取り返しがつかないのが惜しいのではなく、それが実は俺にとっては全く楽しくなかったということが俺にとっては心残りで悔しく思われる。

 一切が辛く苦しく、悲しく虚しかった。全てが嫌で疎ましく、ただ忘れたく遠ざかりたい一心だった。そのような思いが俺を何かに依存させた。そしてその行動は俺にあらゆる害悪をもたらし、俺はそれによって一生を不意にしてしまった。後悔と絶望の板挟み、自分や他人への忌避感情、それらから逃れるために何かに必死になって縋った。思い返せばただそれだけの生涯であった。

 

 

 焦燥に駆られ遁走したところで、いずれ限界が来る。それは肝臓などの内蔵が壊れる瞬間かもしれないし、引きこもり馬齢を重ねたことによる行き詰まりに直面する時かもしれない。それらが眼前に迫ったとき、人は自分がただ闇雲に全てから目を逸らし続け、向き合うべきことに向き合わなかったことのツケを払わされることになる。

 人生を無意味に浪費し、身も心も害して取り返しが付かなくなったところで、誰も俺に同情はしないだろう。ただ、「あいつはバカなことをして身を持ち崩した」と評しただ嘲り蔑むだけだ。俺の心中にどれほどの葛藤があり、人生を棒に振ってでも逃れたかったものについて、誰一人として想像もしない。

 全ての退路を断たれ、ありとあらゆる不都合なすべての事実から、逃げるに逃げられなくなった時に、自分が人生を費やして何をしていたかを思い知ることになる。ただひたすら目を背け逃れたい一心で遊びに興じ、暴飲暴食に耽溺していたということ。そして何より、それは全く楽しくなく、無駄な徒労にでしかなかったということを。

 俺は自分が酒好きだと思いこんでいた。また、人生の別の時期においては自身をアニメ好きやテレビ好き、ラジオフリークだとか何かについてもマニアを自負することさえあった。しかし、それらの全ては単なる思い込みでしかなった。俺は偏に自分や世間、己の人生や生涯における去来などから逃避するためにそれらを利用していたに過ぎない。

 それは遊びですらなかった。そう、俺は自分が楽しんで、遊んでそれらに興じていると錯覚していたが本当はそうではなかった。固執し、執着し、拘泥し、こだわるその精神の背景にあるのは、深刻さを孕んだ命がけの逃避であった。興じながらも楽しまず、戯れる素振りをしながらも遊び心を知らなかった。自分の本心を知ることなく無闇に何かに溺れ、縋る行為には何の喜びも楽しみもなかったのだった。それに気付いた俺は、少なとも飲酒に限って言えば、もう執着することをやめるに至った。