書き捨て山

雑記、雑感その他

非ず非ず

 自律神経が狂い心身に様々な異常をきたしたときのことを思い出す。ある晩のこと、俺の両手は箸を使って食事ができないほど震えだし、全く止まることがなくなった。強引に食事を済ませると、動機がして、不安や焦燥の念に駆られだした。その日の夜は、冷蔵庫に入れておいたストロングゼロをほんの3リットルほど呷り、気絶するようにその日は眠りにつき何を凌ぐことができた。

 翌日と翌々日も肉体や精神に明らかに異常が見られたが、酒を飲んでなかったことにした。アルコールが体に入れば指の震えが止まり、精神が静まり心が安らぐような感じがした。アルコールを摂取することで自分が本調子になるということは成人して以降は当然のことのように受け止めていたため、俺はそれで何も問題はないと高をくくり特にこれと言った対策もせず、危機感を抱くことすらなかった。

 一週間が折り返しに差し掛かった木曜日に酒による平穏が破られることとなった。俺の体は前触れもなくアルコールを受け付けなくなったのだ。コップに注いだ酒を口火運び、啜ろうと試みても喉につかえるような感覚がしてすんなりと飲み下すことができない、前代未聞の経験であった。強引に二口三口と飲み続けると、全身の血管が浮き上がり、激しい動悸と不安感が俺を襲った。酒を飲もうとしても体がそれを拒絶し、俺はそれ以降シラフで夜を明かさなければならなくなった。

 断続的に飲酒していた肉体からアルコールが抜けると、それによる離脱症状が起こる。動機や精神状態の異常や不眠などはその典型的なものであった。仕事で疲れて困憊しているにもかかわらず、一睡もできない日々が続いた。発話する度に声が上ずり、動作は挙動不審を極めるような有様だった。しかし俺は経済的な苦境にあり、医者にも薬にも頼れず、心身の不調にただひたすら孤独に耐える以外の選択肢がなかった。

 不眠は人生初ではなかったが、横になり目を閉じることすらままならないのは筆舌に尽くしがたい苦しみだった。眠れない夜を過ごした経験は一度や二度ではない。しかし、ベッドに寝ながら目を閉じてじっとしているだけでも、心持ちは大分よくなり、体も休まる。それまでは不眠に対してはそれにより対処してきたが、それが全く不可能になってしまった。仰臥し目を閉じると不安感が俺を襲い、胸概要に脈打ち、いたたまれなくなり起き上がり家の中を何往復もしてしまう。多少気が静まり再び横に寝るとまた

 動機と不安の念が募るのだ。横になり目を閉じることができないなど俺にとっては俺は生まれて初めての体験であり、これには流石に堪えたものだった。

 

 

 疲れており休みたく、それを欲しておりそれができるはずの状況下でそれが能わないという状況に陥り、俺は計り知れないほどの恐怖と理不尽さを味わった。自分の肉体、ひいては自身の精神が己のものではないような感覚を覚えた。俺の心身が、全く俺の意にそおうとしないのだ。その時に陥った状態の中で、俺は自身の肉体や精神に否定のしようがない他者性を感じた。いや、思い知ったと言ったほうが適切な表現かもしれない。

 全く思い通りにならない体と心は、最早自分自身とは言えない代物のようにしか思えなかった。肉体も精神も完全に言うことを効かなくなってしまっていた。俺は眠りたい、少なくとも翌日の労働に備え休む必要があり、そのための時間を確保しているにもかかわらず、俺の意に背くかのように全身全霊で他ならぬ俺自身の肉体と精神が阻むのであった。

 俺は自律神経を損なったとき、肉体と精神が不可分であることを身を以て知った。体を損ないながら心を強く保つことはできないし、また逆も然りだ。気の持ちようや心がけ、あるいは根性などといったものが、現実の危機に直面すれば全く用をなさないということを身に沁みて感得した。心身のどちらが害されたとき、もう片方も無事で済むなど有り得ない。

 また、日常的な感覚において自己同一性の根拠となる肉体や精神も、御することができないときには障害にしかならないということも知った。動悸があまりにも収まらず、心臓発作を起し、危うく死にかけた夜すらあった。副交感神経を優位にさせるためのあらゆる試みを行っても、俺の体は全く答えようとしなかった。

 加えて、俺がなだめようと躍起になった自身の精神までも、まるで赤の他人のように俺に報いた。目下眠れなくなるほどの懸念材料などなく、疲労が明らかに蓄積されており、体も脳も休息を必要としているのを尻目に、俺の心は乱れに乱れた。瞼を閉じれば特に理由もなく焦りや恐れの感情が無限に惹起した。また、横になろうとして1分と持たずに起き上がり、部屋中を無意味に歩き回らなければ居ても立っていられないという有様であった。

 

 眠りを取り上げられ、疲れを癒やすことが全く出来なくなっても夜は開ける。全く休むことができないままに朝を迎え、覚束ない足取りで出勤して仕事に臨まなければならないときに感じる絶望は筆舌に尽くしがたいものがあった。この世の全てが俺が生きつづけることに反対しているかのように感じられた。立っても座っても針のむしろで、悪寒がし、脂汗が止まらず、四六時中手足は震え生きた心地がしなかった。

 文字を読む為の能力も減退した。歩道の脇に設置されている案内板の地図に乗っている文字が、無意味な線や染みのように見え、たったひとつのセンテンスを理解するだけも気が遠くなるような思いがした。

 心細く、寂しく、ただただ不安を募らせた。誰に頼ることも縋ることもできず、休むことも息をつくこともできず。俺は震えながら労働時間をやり過ごした。帰宅すれば今度は家の中の静寂や暗闇への恐怖感が胸中で掻き立てられ、俺は街灯に照らされた大通りに用もなく出て、跳ね上がるように動悸を鎮めようと一人で無為無策のまま胸を何度も何度も撫で回して空を仰いだ。

 俺がようやく睡眠を取り戻したのは約2週間ほどたった後だった。精も根も尽き果てたある夜のこと、緊張の糸が切れたように俺は泥のように眠った。意識を失い、眠ることができたという実感を久しぶりに得られたときの至福や安堵は天にも昇る心地だった。俺はそれに至るまで、もう二度と眠りにつくことは出来ないかもしれないとすら思った。それが杞憂にすぎないと結論付けられたとき、俺は正しく欣喜雀躍と言った感じの気持だった。

 現在は内臓も自律神経も正常な働きを取り戻し、不眠に悩むようなことはなくなった。しかし、かつて味わった苦しみは俺の心の内奥に深く深く刻み込まれ、今でも容易に思い起こせる。体も心も自分自身どころか完全な他人、ともすれば敵対者と称しても差し支えないほど俺の意に沿わない様相を呈した夜々の経験が、俺の肉体や精神へのある種の不信感をもたらしている感がある。

 

 何かをどれほど身近に感じていても、それを完全に制御できないならばそれは自分のものだとは言えないだろう。おれはそれを自身の肉体や精神に対して感じた。どれだけ宥め落ち着けようとしても、俺の心身はどちらも全く言うことを聞かなかった。この一事は心も体も本質的には自分自身と等号で結ぶことはできないという事実を表している。自在でないものがなぜ己に帰属するなどと言えるのだろうか。

 肉体は己に非ず。頭脳は己に非ず。感情は己に非ず。思考は己に非ず。そのようにして考えると、完全にこれこそが自分自身だと確信を持って宣言できる何かなど、改めて見れば実は一つもないという恐ろしい結論に至ってしまう。

 だが、それが真であると俺は思わざるをえない。眠れるかどうかというのは一つの例に過ぎず、普段自分自身だと見做している体や心、ひいては霊魂などといったものが本当は自分自身とは縁遠いないし無縁な代物にすぎないと断じたほうが、形而上のものであれ形而下のものであれ、何かをもって自己の本質とするよりも妥当であるように思われならない。

 己自身の本質というのはつまり、不可知不可捉のなにがしかだとしか言いようが無いのではないだろうか。上辺だけ、表向きだけで見ればあるものが自分であるようにしか見えず、そうとしか感じられないが、深く掘り下げて熟慮すればそれは単なる謬見にすぎず、それはどのような次元で、どのような側面で見てもそうとしか言いようが無いというのが本当のところなのかもしれない。

 確たる自分など、どのような場所にもどのような形でも存在しない、実のところそうなのかもしれない。「我在り」という意識が錯覚や思い違いにすぎないならば、己が浴し被る一切は俺そのものとは無関係の事柄と言ってしまってもいいだろう。「我なし」という境地が真理だとすれば、俺はもう何も損なわず、なににも害されず、奪われたり痛めつけられることもない。肉・心・霊どれもが自己そのものとは見なされず、それらを取り巻く一切はただの戲れと化す。