書き捨て山

雑記、雑感その他

自由の在り処

 人間にとっての究極の自由とは、叶わないことを願い続ける姿勢だ。自分が好きなことをし続けるだとか、他者を意のままに支配し操作し続けるなどといったような自由や権限など、一時保たれればいい方だ。また、それは皮相的な考えで捉えた自由の一つの形態でしかない。何らかの事情や要因などによって容易に損なわれたり阻害されたりするような自由だけに固執するのはおろかで浅はかであると言えるだろう。

 手足に枷を付けられ、決まりにより心を雁字搦めにされ、倫理や道徳などに霊的に束縛されたとしても、自分が達成できないことや成就できないことに思いを馳せる事はできる。実現されない願望こそどんなことがあっても誰にも奪うことができない人の精神的な領域であり、それを見失わなければどれだけ弱く、抑圧された人間であっても自由を失うことはない。

 叶わなかった願いは、因果関係や論理、物理法則などとは全く無関係な代物である。それは能力や資質、時間や空間とは全く無関係なまま人間の頭のなかに留まり続ける。それこそが我々にとってもっとも重要な宝なのだと俺は考える。叶った望み、現実に起こった結果などよりも、空想や夢想の中に思い描いた融通無碍な願望の数々の方が俺にとっては愛おしく感じられる。

 身も蓋もない言い方をすれば、自由とは妄想できる余地なのだ。たとえ荒唐無稽で身勝手な欲望でしかなく、社会通念上好ましくない願望の発露であったとして、それこそが人間にとって最も大切にされなければならない。妥協や建前、実利や体裁などを度外にしにした本当の望み、腹の底から湧き出る本心から欲することにこそ人は目を向けなければならない。

 心身ともに拘束、束縛された状態にあっても、他人の手によって直接イマジネーションの芽を完全に摘み取ることはできない。人がそれを失うとするならば、それは己自身の心が挫けたときだろう。自分からそれを手放さない限り、理にかなっていなかろうが矛盾だらけであろうが、何であれ人は叶わないことを願い続けられる。そしてそれを決して失わない人間だけが真の意味で言うところの自由人であり続ける。

 

 

 俺の人生には星の数ほどのしがらみがあった。様々な人々や、雑多な理由などにより、俺は全く意に沿わない生き方をせざるを得なかった。自身の生涯におけるままならなかった願いや、思いの一つ一つが俺にとっては心残りに思われた。己の生涯を振り返ってみても、思い通りになったことなどただの一つもありはしなかったし、実現しなかったことへの未練がいつまでも延々と心中で未だにくすぶり続けている。

 だが、それは望みが叶って然るべきだという前提があってはじめて成り立つ感情だ。成就しない願いは単なる妄想として自分の頭のなかで完結させ、それはそれで是とすれば結果の善し悪しには執着する必要がなくなる。成功や達成という成果にこだわらなければ自分の望みを思い描く行為は自由そのものであり、即物的な状況の中での縛りなどは完全に無効となる。先に述べた通り、その叶わない願いこそ絶対不可侵の自由の本質であり、それの在り処であると俺は主張したい。

 妄想することで人間は自由でいられる。その通りになるかどうかなどは完全に度外視し、ただ闊達に夢想する精神はどのような桎梏や葛藤からも無縁だ。俺はそれこそを最も尊ばなければならなかった。にもかかわらず俺は、他人によって植え付けられた観念や自身が抱え込んだ思い込みなどにより、目を曇らせそれを蔑ろにし続けた。近頃になり、俺は愚かにもそれに気がついた。

 叶わない望みは捨てろなどと、一体誰が最初にいい出したのだろうか。それは人間に許された唯一の自由を自ら放棄しろという主張や要求にほかならない。叶わなくても、いや敵わないからこそその願いには価値や意味があるのだと俺はあえて言いたい。金銭や物理的には不可能だと断ずるしかないことであっても、人間はそれらとは無関係な妄想を展開することができる。それこそが我々における最も尊ぶべきものだと俺は信じたい。

 妄想とは言うなれば形而上の構築物であり、形而下の世界からは切り離された別個の世界であると見なすことでもできる。それが一個人の頭の中だけにあるか、複数人ひいては不特定多数によって共有されるかは瑣末なことだろう。肝心なのは、物理や論理などから人間を解放し自由たらしめるのは妄想とそれを可能にする能力なのだという一点のみだ。

 

 人間という存在を自由にするのは欲まみれの身勝手な妄想であり、つまるところそれは叶わぬ望みだ。我々はそれが大概の場合において現実にはならないと重々承知である。しかしそれにもかかわらず、我々は全くそれと縁を切って生きることなど不可能だ。自前の空想であれ、映画や小説などの媒体により伝達されるものであれ、人間は妄想を日常的に必要としている。

 フィクションが現実を反映していないなどと言い憤る者は稀だろう。それは我々の大半が絵空事を娯楽として鑑賞し、また消費していることを表している。虚構に没頭し、入れあげるとき、我々の内面にはカタルシスがもたらされる。それを無益で無駄なことだと一笑に付す人間はそうとうの変人だろう。

 バーチャル、フィクション、ファンタジー……。どのような呼び方や言い方をしても差し支えないが、それらは有り体に言えば妄想であり、叶うはずがない願望や空想でしかない。だが、それらの言葉で称させるものがどれほど多種多様な手段や形式により我々の生活や人生に浸透しているか。改めて考えてみればそれについて意識していないだけで我々の暮らしには妄想は身近で、また欠かすことができないという事実に気づかずにはいられないだろう。

 他人から与えられた空想をそのままただ消費者として享受することは容易い。メディアを介して伝達されるイメージや権限や力がある個人や組織によって布告される様々な決まり事などに従順であり続け、それを盲信することで個人としての生活や精神的な均衡を維持するという生き方は現代社会に生きるものならば誰もが当然のように卒なくこなしている処世の術だと言えるだろう。

 翻って自前の妄想、とりわけ実現する目算が皆無に近いものを捨てることなく抱き続けるのは一筋縄ではいかないだろう。前述の他者から与えられたものでは満足できず、救われないと考える者は自力で何かを思い描かなければならない。それを実行に移すには単に誰かの言いなりになり思考したり行動することとは真逆の態度が必要となる。加えて、それが成就しない現実に打ち負かされないある種の「強さ」が必要になってくるだろう。

 

 

 思い通りにならない結果を目の当たりにしても、頭の中に展開した妄想を手放さずにいられる人間はそれほど多くはないだろう。夢を見るな、現実と向き合えと世間で言われているのは、そのようにした方が楽であり、多くの人間にとっては適切だからなのだろう。それはもしかしたら、自身が携えた願いが叶うかどうかに一喜一憂し挫けたり傷つくことがないようにという配慮に基づいてのことなのかもしれない。

 しかし、望んだままにならないという現実に直面したとき、狼狽することなく振る舞える強さがあれば、そのような戒めは不要だ。頑健さや強壮さを伴う妄想狂は、叶うかどうかなど始めから眼中にない。また、その者が抱く夢想は現実に適応できない障害としての発露ではなく、己の精神を自由たらしめる高貴な狂気だと捉えるべきだ。

 俺はこれまで、自分なりに自由というものを追求してきたが、要するに自由とはくだんの通りの逞しい狂人への志向によって達成できるのだと言い切ってしまってもいいのかもしれない。また、それは言い換えれば期待せずに願うということでもある。そのような器用さと強かさがあれば、独りよがりな妄想を無碍に展開しながら厚かましく生きていけるだろう。

 自由であり続けるには強くなければならない。他人や状況が頭の中の願望や妄想と似ても似つかず、ともすれば正反対であったとしても、願うことや思い描くことを止めない強さが必要だ。俺は近頃になって、それこそが自分にとって本当に求めているものなのだということがようやく分かった。願いをいくつ叶えるか、また叶った願いの数で人生や自分の値打ちが決まるのではない。その全く逆で、叶わない望みをいくつ捨てずにいられたかが大切であったのだ。

 成されず達せず遂げられなかった願望の全ては、俺にとっての至宝であった。それらの一つ一つが、俺の精神が強靭であったことの証明だったのだ。また、かつて捨て去ってしまった夢を再び拾い集め、胸中の元あった場所に戻さなければならないとも言える。それによって俺は、己の強さを取り戻し確認できるようになるのだから。

 叶わぬ夢こそ自由の在り処。ただひたらすら、命に替えても妄想せよ。