壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

我なし

 運転免許証や住民票などに記載された自分自身の個人情報を見ると、奇妙な気持ちになる。それに書かれているのは他でもない己そのものとそれと深く関連のある属性や事柄なのだが、まるで他人事のような感じがしてならない。名前や住所、生年月日などといった自分自身と直接結びつく情報が書き連ねてあるにもかかわらず、自分そのものとそれらの情報との間に隔絶感のようなものを抱かずにはいられない。

 仮にもし、俺の戸籍謄本があったとして、それを誰かが俺の目の前に突きつけ、これに載っているのがお前の全てだ、と言われたら俺はどうすれば良いのだろうか。それについて完全に否定も肯定もできないだろう。紛れもなく自分自身の戸籍であり、本籍地や両親との続き柄なども自分自身のことがそのままズバリ書いてあるのだから、こんなものは自分ではないなどとは断ずることはできない。

 だがそれは極端な話、単なる文字の羅列でしかない。それらが俺についての本質だと何者かに言われたとしても、それに全面的な肯定でもって答えるのもまたできないだろう。客観的なデータや事実関係などを突きつけられて、それこそが自分自身であり、それ以上の、それ以外の自分というのは幻想や思い込みでしかないなどと割り切って言える人間は極めて稀だろう。

 それならば、俺は何なのだろう。月並みで有り触れた疑問ではあるが、それはともすれば自身の根幹を揺るがしかねない大きな問いだ。己をどのように定義し、何処にそれを見出すかは、人生においてもっとも重要なことだと思う。そしてそれは我々の日常的な感覚や思考の中にあっては、基本的に棚上げにされるような問題でもある。それについて考えたとしても、明確で腑に落ちる答えは容易には出せないだろうし、それにかかずらったとしても金銭的には特に何の得もない。だから我々は自分自身についてはあまり深く考えようとしない。

 しかし、ふとした拍子にそれについて気がかりになるときは往々にしてある。冒頭に述べたような取るに足らないきっかけから始まって、己について考え始めれば自分という存在の捉えがたさを感じずにはいられない。どんな形であったとしても、少なくとも感覚や思考、意識などによって裏付けられた存在として自分というのは取り敢えず在りはするのだと、漠然と考えておしまいにするしかない。しかし、そのような定石通りの結論づけに至るお定まりの思弁などつまらない。よって、それとは真逆のアプローチを戯れに、敢えてしてみたいと思う。

 

 

 個人情報というのは社会的な意味における人間の構成要素だと言えるが、遺伝子などについてはどうだろうか。遺伝子は肉体を構築する為に必要な情報であり、戸籍や住民表などのデータと同じく唯一無二の情報であると見なしていいだろう。DNAなどを鑑定し、それについての結果を何者かによって突きつけられて、これこそがお前だなどと言われるようなことが仮にもしあったとしたら、俺はそれに首肯しなければならないのだろうか。

 最初の例えも二番目のそれに対しても、俺は明確に然りと返答できない。社会的な意味合いにおいても、肉体に基づくものであっても、単なる自分を定義したり構築したりする要素のみが俺だなどとは思いたくない。それらは客観的であり、また揺るぎない事実ではある。だが、それらだけでなくもっと別の何かこそが自分自身の本質なのだと心の何処かでは思いたいというのが人情というものだろう。

 では、精神や心などといった主観的であったり観念的な代物に依拠するべきだろうか。これらについても俺は懐疑的にならざるをえない。これまで生きてきて、俺は数限りなく心変わりをしてきたし、気まぐれにより何度も意見や考えを変えてきた。そのような記憶に目をつむる訳にはいかない。自分自身の精神の移ろいやすさや心もとなさは万人に覚えがあるはずだ。よってそれらもまた他ならぬ自己そのものだとは呼べない。

 肉体そのものこそが自分だというのはあまりにも短絡的な見解だ。肉体は精神と同じように変化する。生まれてから死ぬまで成長することも老いることもないならば、肉体というのは自分の本地だと考えてもいいだろう。しかし、現実には肉体は新陳代謝により構成する物質がどんな瞬間においても入れ替わる。その観点で考えれば肉体即自分というのは単に浅はかであると言うしかない。

 最後の砦は霊魂だ。表面的な思考や感情、精神活動などとは別の次元のアイデンティティとしての個人の霊性といったものに重きを置けば、肉体や心などに拠らなくても自己が自己であり続けると確信できる。それでよしとする者にとってはそれが答えでありゴールだろう。だが残念ならが、俺はそれにも与することができない。

 

 霊は人間が想定できる自己のアイデンティティとしては最も高度なものだろう。しかし、だからと言ってそれが絶対的に正しいという根拠も証明も不可能だ。霊性こそが人間という存在における根本であり本質なのだと主張する言説はスピリチュアル関係の世界では盛んに唱えられている。肉体が滅び、心が移ろっても霊魂は不滅であり、死んでも何らかの形でそれは存続し、個人は個人で在り続けるという考えは「そっち系」に属するものであろうとなかろうと、簡単には否定できないものだろう。

 俺は霊魂の実在を否定も肯定もしないが、霊即自分と定義するのには抵抗を感じる。 仮にそれがあったとしても、それ即ち自分だと確信を持って言うことができない。どのように言い表せば適切なのか自分でもよく分からないが、何か微妙な点において腑に落ちないところがある。霊という概念を中心にして自分や世界を認識することへの釈然としない感じがある。

 霊が自分だとすると、俺は肉体が生じる前から俺であり、またそれが滅んだ後も相変わらず俺で居続ける。そしてその厳然たる自分は彼岸に移るにしろ、此岸にとどまるにしろ霊という形で不変だということになる。また、転生したとしても同様だ。体という外面が何度もすげ替えられるとしても、俺は俺であることは少しも変わりがないというのは、なにか嫌な、窮屈なように感じられてならない。

 一体全体、何故俺はそれほどまでに俺でなければならないのだろうか。自己というものが、どうにも捉えようがないあやふやなものでしかないというのは何度も述べたとおりだ。俺にとっては、それをどうにかしてスタティックなものたらしめたいという苦心の結果として霊魂という概念が設定されているように思えてならない。それほどまでに自分が自分として存続したいという欲が、そもそも俺にはないのかもしれない。

 霊魂としての俺が遠い未来に輪廻の中で、より良い境遇に生まれ変わるとしても、天国などのあの世で安楽に暮らせるとしても、どうにも心が惹かれない。それで良しと心の底から思える人間を、俺は羨ましくすら思う。不変にして不滅の己、それがどのような形態であったとしても、確定しているのは不自由で退屈、更に言えばなにかとらわれているような感さえある。

 

 個人情報・遺伝子、思考・感情、精神・霊魂……。なんらかの要素や形姿によって永遠に自分が存続して欲しいという願望が、突き詰めて考えれば俺には全く無いのかもしれない。特定の何かや状態が、俺そのものなのだと断言することが、俺にはできないしまたしたいとも毛頭思っていないというのが本音なのだろう。

 ならば、自己の本質とは不可捉ななにかであり、更に踏み込んで言い表せば不可知であると見なすしかない。何が自分なのではなく、何であれ本質的には自分そのものではないのだとするしかない。戸籍謄本や遺伝子などの情報の中にも、霊魂や精神といったスピリチュアルな領域においても、自己とは究極的には不在なのだと考えるのが俺にとっては合点がいく。

 俺は特定の形で自分が存在し続けるのが好ましいと漠然と思い続けてきたが、それは根本的な誤りであったようだ。どのような状況に身を置いていたとしても、現状維持に固執するのは本来不可知不可捉で不変でない自分を蔑ろにしていると言っても過言ではない。

 自己の本質は何ものでもなく常に変化し続ける様相、または変質や変容という過程それ自体が俺の根本であり核心であったのだ。どのように変わるかが大切なのではなく、水が流れるように不定形で可変性のある性質こそが最も俺が俺として最も重視すべきものだとすれば、ようやく納得がいく結論に至れる。

 不確定さこそが自己の本質なのだ。静的な何らかの形での自分など不在だ。それが王様であろうと乞食であろうと、特定の何かが俺自身だなどとは認めたくはない。戸籍や遺伝子が自分そのものではないのと同様に、どのような属性や状態であっても、それがどれだけ優れていて望ましいものであっても、俺の本質とはまるで無関係なのだと今は言える。俺は何者でもなく、それを見失わない限り俺は決して何かに囚われることもない。