書き捨て山

雑記、雑感その他

無駄骨

 損をしたときにどのような気持ちでそれを受け止めるべきだろうか。俺はこれまで数多くのタダ働きをさせられてきたし、徒労に終わるようなことをいくつもいくつも好むと好まざるとにかかわらずやってきた。単純な損得勘定で見れば、それらの一切は完全に無駄であり無意味であり、人生における時間や労力の純粋な浪費でしかないと言うしかない。空費された過去が取り戻せるたなら、などといった在り来りな妄想に耽ったことは一度や二度ではない。

 自分のためにそれを甘んじたというなら、まだ救いがあるが実際はそうではない。俺がやらされてきた、または目下やらされている数多の不毛な苦労の数々は、その殆どが他人の都合や思惑、もしくは利益や満足のためのものにすぎなかった。他人に得をさせるために俺が割りを食わされたり損を被ったりするという場合が常であった。そのことを思えば、大変理不尽で悔しく感じられる。他人に時間や労力を強奪されたという事実だけがあり、私から多くを奪った者どもはそれを当然と考え、悪びれもしないのだから。

 他人にとって都合がよく、得をし、幸福になったとしても、俺には何の意味も価値もない。他人の気持ちを慮り相手の便宜を図り、また他者の存在を尊重してきた、決して誇張してこのような書き方をしているのではない。俺は他人の目や評価を気にして、不必要な憂き目を見たりそんな役回りを自ら演じてきたのは紛れもない事実なのだ。そしてそれが完全に何の値打ちもなく、俺の人生においては単に有害でしかなったという不都合な現実を直視し途方にくれているのだ。

 人生において他人のせいで被った星の数ほどの無駄骨を、俺は一体どのように捉えれば良いのだろうか。俺は自分の損害を度外視してでも尽くしたい程の人間に、これまで生きてきてお目にかかったことは終ぞない。だから俺が他人のために費やした全ては完全に無価値な苦労でしかない。俺からたくさんの機会や時間を奪っていった連中は、恐らく俺のことを覚えてすら居ないだろう。そのようなことを考えると気が狂いそうになる。

 他人がどれだけいい目を見て得をしたかなどこの際どうでもいいが、俺の損や労についてはどうにかして気持ちに折り合いをつけなければならない。人間にとって最も大事なのは、己の人生をどのようにして正当化し、納得するかというこの一点に尽きる。その観点で言えば、俺は自身の生涯をどうしても肯定できない。そしてその最大の原因はあらゆる骨折り損について是とすることができないという一事であり、それを強引にでも解消する必要があるというのは自明だろう。

 

 

 もしも、俺が遭った憂き目や食らわされた仕打ちがもしなかったらどうだろう。他人から毟り取られた時間が、完全に自分のためだけに使えたなら。俺の人生はもしかしたら、今のそれとは全く異なるものになっていたかもしれない。労力はともかく、時間というのは言うなれば命そのものだ。それが他人のために浪費されたという事実は、他人に己の命そのものを略奪される等しい事件であると言っても過言ではないものだと言える。

 俺はこれを書きながらふと、高校時代のことを思い出した。俺は高校時代においてはなぜか放送部に所属していた。俺が高校2年の頃、放送部の全国大会が県で開催され、その準備や運営などのために県内の放送部に入っている全高校生が駆り出された。開催地は確か三沢市で、合宿場のような場所に集団で寝泊まりすることを教師達に強要され、数日ほど集団で色々とやらされた記憶がある。

 それもまた俺にとっては無駄骨でしかなかった。俺は熱心に部活動をしていたわけではなかったし、教師連中のメンツや体裁のためにタダ働きをさせられただけだと思うと憤りの念が湧いてくる。それの為に拘束され、俺に一体何の得や利益が遭ったというのだろうか。無論何一つない。俺にとってそれは全く時間の無駄でしかなく、他人のいいようにこき使われた数多ある出来事の一例としてそれは挙げてもいい思い出だろう。

 社会に出てからは、他人のために使役された記憶には事欠かないほど沢山、俺は散々な目に遭わされてきた。時間外労働や休日出勤などは序の口で、一銭にもならない強制労働などは日常茶飯事だ。単に働かされたというだけでなく、仕事上必要な備品や部品の類いなどを自腹を切って買わされることすらあった。それは当然給料から差し引かれることになるが、それは数百円ではなく数千円の出費であり、ともすれば日給換算で丸一日分の賃金がそれのために消えるほどの高価な品物であった。それを自費で賄うという理不尽は筆舌に尽くしがたいものだった。それについてはまた別の日に書くつもりだ。

 俺は他人に使われ続けた。それは安い賃金もしくは無償、悪くすれば収支がマイナスになることすらあった。それにより俺の人生のかなりの部分が浪費され、それはもう二度と取り戻すことは出来ない。そのことを思えば、気が狂いそうになる。それから逃れられなかった後悔と、俺から膨大な時間を私利私欲や身勝手な都合のために奪っていった世間の連中に怨嗟の念が湧いてくる。

 

 惜しい、ただのその一語だ。時間というのは人間にとっての一番の財産であり資源である。そのことについて、俺はあまりにも考えもなく他人にただ奪われるがままにしていたように思えてならない。それは大概の場合において、そうするしかなかったとしても、その理不尽さや自分が被っていることの重大さについて俺は無頓着でありすぎた。

 俺の人生が俺のものだというのは単なる思い込みにすぎない。俺は様々な意味において、他人に利用され続けたし恐らくこれから先も死ぬまでその点において大筋ではそう大きく変わりはしないだろう。仕方がない、やむを得ないと言いながら他人に使役されるだけの生涯を送るのは恐らく避けることは出来ない。

 だがそもそも、自分は自分の所有であるという前提はどこまで正当だと言えるのだろうか。自分が生まれてから死ぬまでの間、徹頭徹尾自分のためだけに全ての時間を己の裁量で活用できる人間などそう多くはないだろう。少なくとも俺はそのような星の下に生まれてきたのではない。土台、俺の人生は俺のために用意されたものではないのかもしれない。

 己を惜しむのは、己を我がものと見なすからだ。逆に言えば、その見解を捨て去ることができれば、俺が他人に利用され、いいように使われるだけの存在であったとしても、そこには一切の問題がないという考えるられる。自分の心身や時間や機会などといった、己にまつわるあらゆる全てが俺のものでなければ、そもそも奪われたなどと言い立てるのは筋違いな暴論ということになる。

 私有でないものを誰がどのようにして奪えるというのか。何かを差して、自分の物ではないと確信を持って宣言できれば、それがどのように遇されたとしてもそこには不満も憤りも抱きようがなくなるだろう。他人の手によって自分が損なわれたり害されたりされるという認識は、自分が自分の物だというある種の謬見からたんを欲する被害妄想でしかない。

 

 

 俺の人生は始めから俺の所有物ではないと捉えるなら、無駄も徒労もない。我がものでないとすれば、それが他人にいくら利用されたとしても、憤るなど見当違いもいいところだろう。自分の人生が自分だけのものだという執着を捨て去れば、他人共がどのような思惑をもって俺を利用していようが俺がそれに対して何かを感じる必要など一切なくなる。

 本来自分のために有効に使えるはずだった時間、望ましい形に出来たはずの生涯、それらは全て幻想にすぎない。何かを差して俺のものだなど宣言するのは単なる傲慢さや蒙昧さの発露にすぎない。証文の一つもないのに、何かを自分の所有物だと主張するのには違和感を覚える。それが例え自分という一個人の人生そのものに対してだとしても。

 また、肉体ですらも我が物ではなく、極端な話ただの借り物でしかないとさえ思う。俺の体の起源を改めて考えれば、両親の受精卵なのは自明だ。だが、父の精子や母の卵子は果たして「俺のもの」だと言えるだろうか。無論父の精子は彼のものでしかなく、母のそれもまた同じだ。彼らの生殖細胞が俺ないし俺のものでないならば、それによって形作られた体が一体なぜ俺のものだなどと言い張れるというのか。

 その肉体を土台にして精神が成り立っているならば、それもまた我が物ではないと言うしかない。そしてそれが体験する時間というものもまた我が物ではない。したがって、被ったある出来事を指して、あれは時間の無駄だったなどと捉えるのは根本的に間違っている。元々自分の物でないものを、無駄にしたり不意にしたりすることは不可能だ。

 無駄や損を肯定する酔狂な姿勢が俺にとっての理想だ。その境地に至れば、俺は己に関する一切が我が物ではないのだと頭の中の理屈としてでなく腹の底から腑に落ち感得できるようになりたい。未だに仕事などで他人に利用される度に不服に思うことがあるため、その域には達していないから、俺はまだまだ未熟だと思う。できるだけ早く、俺の人生が我が物でないと心の底から断言できるようになりたいものだ。

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