他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

図書館に行く

 俺は日曜日にしか図書館に行かない。俺は基本的に2箇所の図書館に隔週で通っている。また、それぞれの図書館は別々の自治体が運営しており、俺は毎週どちらか一方に借りた本の返却と予約したものの貸出の為に赴いている。元々は土曜日に通っていたが、週末はある学校に通うことにしているため、今は日曜日に図書館に行くようにしている。

 どちらの図書館も、別に平日に行っても構わない。双方の図書館とも平日においては夜遅くまで開館しているため、仕事を終わらせて一旦帰宅してから自転車に乗って出発しても十分利用することが可能だ。だが、俺は日曜が閉館日で借りた本を反しそびれでもしない限り、基本的にどちらの図書館であっても平日には利用することはない。

 なぜかと言えば面倒だからだ。俺は仕事がある日は基本的に真っ直ぐ家にかえることにしている。労働を済ませた後に遊びであれなんであれ、仕事以外の用事を入れるなど有り得ないことだとずっと考えてきた。それは疲れているとか時間的にどうしても余裕がないなどということではなく、偏に面倒くさくてやる気がしないという理由のみによるものに過ぎない。

 面倒だから避けたいとかやりたくないということは、俺にとってずっと自明で正当な理由だと思ってきた。子供の頃からどちらかと言えば物臭な性分で、好奇心や意欲などよりも、如何に疲れず面倒を被らないかといったことに比重を置いて行動したり物事を選択したりしてきたきらいがある。図書館に通うということも、その原理原則に則り面倒くさくて本来したくないこととして捉え、俺は仕事がある日には極力やらないように努めてきた。

 だが突然、今日になって何の前触れもなく、その気質こそが俺の人生における一つの限界となっていたのだという思いに駆られた。そのようなことは先刻承知というか、明らかすぎるほど明らかではあったのだが、それを正そうと思ったのはもしかしたら今日という日が生まれて初めてだと言っても決して過言ではないかもしれない。俺は今、面倒を厭う気持ちを強く問題だと認識している。

 

 

 逆に言えば、それまでは問題だとは見なしていなかった。むしろ前述の通り面倒で手間がかかることを如何にやらないかということを目標や目的にして一挙手一投足に及んでいたとすら言える。それが自分の人生に於いて有害な思考となることを全て理解していながらも、労を少なくしようとするのは人として当然のことで、当たり前の性向だと考え改めようとしなかった。

 言うまでもないことだが、一個人の人生においては何もしなれば何も起こらない。物臭な人間は変化を嫌うし、現状維持を至高の状態としてそれに固執する。目下の状況が何の不足も不満もなく、完全無欠であるならばそれは問題ない。しかし、殆どの人間にとって完全な意味で満足できる境遇などあり得ず、無論俺の人生も本音で言えば欠乏や不服に満ち満ちている。

 にもかかわらず、俺は面倒臭がるのだから我ながら不思議だと思う。疲れずに楽な状態であり続けるのは、それほど魅力的なのだろうか。俺は自分の物臭な性分は、人として当然だと考え疑うことを知らなかった。それにより多くの機会や好機を逃しているという明白な事実に気付いたり実感したりすることは幾度となくあったが、それでも俺は面倒を嫌った。自身の人生や境遇に不満しかないのに。

 図書館の件はその好例だと言える。週に一度しか図書館に通わないということは当然読む本の冊数も限られてくる。自分の中で面倒だということを理由として図書館に行く回数を制限するせいで俺は読書量を自ら減らしている。本を読む機会や触れられる情報の良が多ければ多いほど己の人生に良い影響を及ぼすと分かりきっているのに、俺はそれとは真逆の習慣を改めようとしてもしていないのだ。

 そしてそれは一例でしかない。俺は実に多種多様な事柄について面倒臭がってきた。それが俺の未来を暗いものにし、どれほどの好機を掴み損なう原因となってきたことか、想像するだけで恐ろしくなる。先にも述べたが、何もしなければ何も起こらない。俺の人生が現状において完全に行き詰まっているのは、単に具体的な行動に及んでいないか、それが足りないという明白すぎるほど明白な原因のせいだ。

 

 平日に図書館に行ってもいいだろう。働いた後に用事を入れて仕事とは全く別の用事を入れても構わないだろう。俺はふと疑問に思う、たかだかそれだけのことが一体なぜこれまでできず、またやろうとも思わなかったのだろうかと。何もせずに疲れただのやる気がしないだのと言い、無為に貴重な時間をドブに捨て続けてきた自身の半生は、一体何だったのだろうかと。

 人生の旬の時期はあまりにも短く、俺はもう色々と間に合わない。俺は自分の子供の頃から学生時代などを経て現在に至るまで、あまりにも動かなすぎた。失敗しても損をしても、面倒でも疲れても何かを一心不乱になって取り組めば、何の取り柄もないワーキングプアとして社会の底辺で足掻き続けて絶望と後悔の板挟みになって呻吟するような人生にはならなかったような気がしてならない。

 そのようなことを思えば、俺はたまらなくなる。疲労感や倦怠感など理由にもならない。なぜ俺はもっと積極的になれなかったのだろうか。他人に言われるがまま、やりたくもないことを消極的に嫌々やることはたくさんあった。と言うよりも、俺が何かを実行に移すのは何者かや何かの要因などといった外圧を受けるような局面においてのみだったかもしれない。

 俺の物臭な性格が障壁となり、人生を制限して台無しにしてしまっていた。現在この文章を書いている真っ最中ですら、俺は大儀に感じる。これは誰かに強制的にやらされていることでもないのだから、適当に切り上げてスーパーに行って酒でも買ってきて出勤するまで飲んだくれたい衝動に駆られる。怠惰への憧憬が、この期に及んでも根深く俺には厳然と存在しているのをひしひしと感じる。

  俺は田舎の貧しい生まれだから、自分には幸福もチャンスも与えられないのだとずっと信じてきたが、それは大きな誤りだった。いや、都会の裕福な親の元に生まれた人間と比べれば、明らかに不利ではあり、それを無視することは正しくはないのだが、その一事をあまりにも絶対的な要因だと見做しすぎていたと言うべきだろう。無気力や憂鬱な感情に飲み込まれて、能動的に何かをしない理由の最たるものとして、それらを俺は無意識の内に利用してきたのかもしれない。

 

 

 俺は自分の体力や気力などに自ら不当に低い上限を設定していたような気がする。怠惰に流れたからこそ俺は無知で無能な人間になったのだ。そしてそれらは貧困をもたらし、最終的に俺の人生を完全に破壊したのだ。全ては面倒がった結果であり、他人と比べて先天的に色々な意味合いで恵まれなかったなどというのは言い訳にもならない。

 仕事が終わった後に図書館に行くかどうかに限らず、あらゆる行為への労を惜しむことが俺の生活に限界や制限を生じさせているのは痛いほどよく分かった。これから先は、己の内なる怠慢に屈することがないようにしなければならない。怠け者は知も金も機会も得られない。幸福に浴する権利を求めるならば、それにふさわしい行為を実践しなければならないのだ。

 そもそも、家に引きこもり体力を可能な限り温存したとしても、倦怠感や疲労感は実のところなくなりはしない。一日中眠っているにもかかわらず、疲れが一向に取れないのはよくあることだ。それはつまり、単に肉体や精神に蓄積された疲労により労働以外の何かが出来なくなっているのではないということを表している。気力や体力は、やる気や意欲の多寡と完全に直結しているのではない。

 怠ければ怠けるほど、俺は貧しくなる。あらゆる機を逃し、人生を棒に振るのだと肝に銘じなければならない。それは常に忙殺されているべきだということではなく、何となくやる気がしないとか面倒くさいだとかいう気持ちに流されず、自身が求めているものに臆さずに手を伸ばし具体的な行動を実践していかなければならないということだ。

 平日に仕事以外の用事を入れることから始めてみたい。その足がかりとして、日曜日ではなく、会社がある日にでも億劫がることなく図書館に躊躇いなく行けるように習慣づけるようと思う。それは本当に些細な事でしかないが、特定の日にしかそれを面倒臭がってしないという現状に甘んじるよりは、遥かにマシなのは確実だ。人間はベストやベターに至ることは出来なくても、ワーストやバッドの状態から抜け出すことは可能なのだと信じたい。