他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

始まる前から遅きに失して

 思い返せば、この街に移ったときから時すでに遅かった。今住んでいる場所に転居したのは大学を卒業して1年ないし2年弱ほどのことだった。現在の俺と比較すればその当時の俺はまだまだ若かったが、それでもとっくに成人し、それどころか大学生という身分すら剥奪された状態であった。それを若いと見なすかどうかは色々と意見が別れるところだろうと思う。ともあれ、その当時の自分と現在の俺を比べると、あまりにも歳を取りすぎたと感じることが最近ままある。

 この街は学校が多くある。私立学園から公立の小中学校、大学まで一通り揃っている。そんな場所で暮らしていると、登下校の最中と思しき子供の姿を数多く見かけることになる。俺はそのような自体に遭遇する度にとてつもなく嫌な気持ちにさせられる。性別を問わず、小学生から大学生まで遍く視界に入るだけで誰であれ何であれ、俺の気分を著しく害するのであった。

 俺は大がつくほどに子供というものが嫌いだ。憎んでいると言っても過言ではない。それどころか、自分よりも年下の人間と言うだけで忌避感情が湧いてくる。ましてや目下学校などに通っている年齢の存在など明確に仇敵と見做しても差し支えないほどに、俺は悪感情を抱いている。どうにもならない負の情念が、いわゆる子供というものを見たり声を聞いたりするだけで惹起されるのだ。

 それはなぜかと言えば、俺は連中が持っている未来が堪らなく妬ましいのだ。子供という存在に比べれば、俺という個人はもう明らかに先がないのは言を俟たない。この街を歩いている子供一人一人がどのような家庭環境で生まれ育ち、どのような教育を受けているかなど、俺には知る由もない。しかし、それらはこれから大人になる存在であり、精神的にも肉体的に多分に伸び代や可能性を有しているという点においては疑う余地がない。俺はその資質が第一にまず気に食わない。

 翻って、俺は年齢的にはすでに盛りを過ぎた個体だ。人間は何歳でも成長できるだの、霊的な存在としては肉体の老いは決定的なものではないだのといった言説により、自身を慰撫することはあまりにも虚しい。どれだけ自分をまだ若いと鼓舞しても、また若さという指標を無効化しようと試みても、眼前にいる若い者どもの存在を耳目により認知するだけでその幻想は脆くも崩れ去る。若いやつらを見るだけでもう、気が滅入るような歳になったというのは俺にとっては余りにも辛い現実だ。

 

 

 俺が住んでいるのは、都内でも指折りの高級住宅地ということになっているらしい。そんな場所で生まれ育つという時点で、この街の子供はもう特権階級と言っても良いのではないだろうか。私立の学校の児童や生徒は他の街から電車などで通っているのだろうが、それでもこの街にある学校に通える子供ならば親の所得は間違いなくアッパーミドル以上であるのは言うまでもない。

 俺は大人になってからこの街に流れ着いたのだ。そんな人間が、幼少期からこの街で生きているような連中と比べて、惨めで情けない存在なのは考えるまでもないことだろう。俺がこの街に居着いたのは、先に述べた通りとっくに大学も終わってからのことだ。いい年になってからこの街で暮らす俺と、子供の頃から都心の一等地で様々な文物や人間に触れる機会に恵まれた人間とでは、人生のスタートラインがあまりにも違いすぎる。

 これは上京した初日においても感じたことだ。先天的に恵まれた環境で生きる個体と、後天的にその環境に身を置くに至ったものとでは、はじめから勝負にならないのではないかという一つの諦念のようなものを俺は18歳の時から抱いていた。高校が終わってからようやく東京に移住するような人間と、生まれた日からずっと東京で育った者とではあらゆる意味で全く異なるし、前者は後者に比べてあまりにも不利すぎるのではないだろうか。

 いわゆる生え抜きの東京人と一口に言っても一概に恵まれているとはいえないかもしれない。しかし、俺が今暮らしている街の人間は全国的に言っても国内上位数%に属しているような階級の人種であることは明白だ。それらと自分を比べる機会が、この街においてはあまりの多すぎる。そしてそれを意識する度に、極端な話俺は死にたくなる。

 生まれつき裕福で恵まれた境遇にある者はそうでない人間と比べてまるで別種の生物だ。そのようなこと事実に目を向けると俺は、人類は二極化していくのだという仮説を不意に思い出してしまう。この街の子供と自分は実のところ全く異なる生命体で、どちらかが「人間」であり、もう一方は実はそれではない別個の生き物ナノではないかという気すらしてくる。恵まれているか否かなどといった話にとどまらず、彼我は全く共通項のない、別種の存在なのではないかと。

 

 日本人はみな同じだなどと我々は漠然と思わされているが、本当は違うのではないだろうか。人はそれぞれ違う、という事実をどのように受け止めるべきだろうか。それはめいめいの個性を尊重し合おうなどといったことではなく、俺にはもっと救いがない話のように思えてならない。どのようなチャンスも余地も最初から実はなく、努力や心がけなどは全く無効なような気がする。

  俺は人生にしくじったのではなく、そもそも幸福になる可能性などもとより0だったのではないだろうか。この街で暮らし、この街にある学校に当然のように通っている「ガキども」を見るにつけ、そのような思いがふつふつと湧いてくる。彼らと俺は住む世界が完全に違うし、それは後天的な何かでは絶対に届くことがない絶対的な差なのだ。

 確かに同じ時空間に存在はしている。同じ時代の同じ国の国民である。しかし、それらの属性を挙げて、彼我が同じだとか仲間だとか見なすことには無理がありすぎる。これは見たくない、認めたくない事実だ。生まれ落ちる場所や育てられる家庭によって生じる個々人の格差というのは縮まることも埋まることもなく、それは俺にとっては正しく絶望以外の何物でもない。

 この街の子供という存在が、俺にとって背けたい現実を浮き彫りにさせ、突きつけてくるのだ。それが俺にとっては恨めしくて仕方がない。生まれつき幸福な人種について、俺は心置きなく嫌い憎むことができる。子供なら猶の事そうだ。裕福な子供を狙って大量に殺害した悪党がこの国に居たことを俺は思い出す。そしてその犯罪者に親近感すら抱いてしまう自分がいることを、俺は認めざるをえない。

 生まれたときから厳然とある差異や格差は覆ることも否定することも出来ない。それに俺は打ちひしがれずにはいられない。望みなど本当は端からなかったという現実を、俺は耐え難く感じる。今この時点から何をどれだけ頑張ろうが苦労しようが、先天的に恵まれた人種には、何をどうやっても叶うはずがない。超えることは愚か比肩することすらとても無理だ。

 

 

 しかしその絶望は、見方を変えれば別の視座を提供する。俺は機を逸したのではないという事実は無視するべきではないだろう。それは俺には過失がなかったということを意味しているのだ。俺は心がけが悪かったり、不義理を働いて不幸に陥ったわけでもなく、予め万全な形で用意された幸福や愉悦を取り逃したのではない。それらは最初から有り得ない幻にすぎなかった、少なくとも俺の人生においては。

 この街にやってきた時、俺はすでに手遅れだったのだ。それは単なる諦念や妥協などではなく、ありのままの事実や現実に他ならない。この街で生まれ育つ境遇が日本国民としての最良な人生だと仮定すれば、俺の人生はそれとは対極の代物だ。俺の生涯ははじまったその時点ですでに失敗しており、成功や幸福といったものははじめから望むべくもなかった。

 それに気付いた瞬間、俺の心は軽くなった。俺は自分の生涯に責任を負おうとしていたところがあり、そのような気質が自身のままらない人生に対するシリアスな感情を生み出していたように思う。自己責任により、俺は苦渋や辛酸を味わい、求不得苦や怨憎会苦の苦しみを喫する羽目になっているのだと考えていたがそれは根本的な謬見であった。

 俺はこの街で生まれることも育つことも能わない。豊かで恵まれた幼少期を経て好ましいキャリアを築き、満ち足りた人生を謳歌することなど絶対に不可能だ。俺は卑しい生まれで鄙びた貧しい環境に適応するように調教され馴致されたのだ。そのような人種が一体何を望めるというのだろうか。実り多き価値ある生など、まるで異なる別の種類の個体の占有物でしかなく、それは俺には完全に無縁なものにすぎない。

 始まる前から終わっていたのだ、俺の場合は。はじめからないものが手に入らないことになぜ深刻になり頭を抱える必要があるのだろうか。俺は「彼ら」とは根本的かつ根源的に異なる存在なのだ。それが悪いとか劣っているなどということではなく、いや、仮にそうだったとしても、そのことについて思い煩う必要も筋合いも全く無い。