壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

どうせ大した人生でなし

 自分がヒトカドの人間ではないという事実とどのように向き合うべきだろうか。自分が特別な存在ではないという現実は、どんなことよりも辛く耐え難く思える。それは至極当然であり受け入れなければならないことだと世間では言われているだろうし、俺も理屈の上では全く異論はない。しかし、心の何処かでは完全に自分が並かそれにも満たない存在でしかないなどとは認めたくないという思いが僅かでもあるということもまた、無視できないところではある。

 しかし腹の底の本心では、自分のことを唯一無二だと思いたいという欲は万人が秘めているのではないだろうか。小説や映画の主人公のように特異でユニークな存在として自身を定義して認識していたい願望がない人間のほうが返って珍しいかもしれない。他人の目には取る足りない存在でしかないとしても、せめて自分自身だけは己のことを英雄や傑物と見做したいと言う願いは普遍的なものだと思われる。

 そしてそれが独りよがりで身勝手な妄想の域を出ないことも、また多くの人々は心得ているだろう。殆どの場面において、自分のことが重要で絶対なのは自分だけだ。それに疑いを挟む余地は全く与えられていない。俺は多くの人間にとっては、いてもいなくても良いような存在でしかない。その一事は否定したくてもできるはずがなく、それにどのようにして向き合うべきか、いい大人になり果てた今においても俺は本音ではずっと悩んでいる。

 漫画やアニメなどに出てくる主人公のように、持て囃され至福を味わうような人生を贈りたいと本心では子供の頃からずっと願ってきた。それは俺が他社と比べて一際我が強いということを意味するものではないはずだ。それは多かれ少なかれ、誰でも思っているありがちな願望であり、俺もまたそれを抱いているというのは別段とりたてて問題にするようなことではないだろう。

 自分はその他大勢のモブキャラクターでしかないと心底納得し、満足すると言う芸当を余人はごく当たり前のようにこなしているのだろうか。もしかしたら、オレ一人だけが見苦しくもそのような青臭い煩悶に頭を悩ませているのではないかという気がしてしまう。自分がスペシャルなどころか、何の意味も価値もない生きていても死んでいても対して変わらない存在なのだと病みも狂いもせずに思える多くの人々の神経は、ともすれば相当に図太いのではない、そんなことをふと考えてしまうのだ。

 

 

 我々の一人一人が、めいめい掛け替えがないのだなど、嘘やマヤカシでしかない。実際はそうではないことなど、我々の誰もが知っている。しかし、まざまざとそれを思い知らされるような段になって、それをすんなりと受け入れられない自分がいることに気付かされる。「ああそうか、やっぱり自分は無価値で無意味な存在なんだ」というようにはならず、それについて不服や疑問を感じるのが正常な人間だと思う。

 俺は、本当の自分はもっと良い人生を歩めたはずなのに、と日々頭の中で考えながら生きてる。ありとあらゆる全ての面で、俺の生涯は平均や標準にも及ばないものでしかない。そしてそれの主体としての俺自身もまた特筆すべき要素がない。これが本来の俺の生、俺という存在なのか? そのような念が歳を重ねるごとに強まっていくのを感じる。若くなくなればなくなるほどに、自分自身がどんどん往生際が悪くなっていくような気がしてならない。

 自分が自分であることが、もう苦痛にしか思えなくなってくる。これがまだ「普通」だというならまだ色々と諦めがつく。少なくとも人並みの生涯を全うできたと確信できるような生き方が出来ていたなら、俺はもっとずっと潔く自分や人生に臨めただろう。全てにおいて満足できなかったとしても、己の生がほどほどの水準には達していたと心底思えたなら、それだけでも人間にとっては救いになるだろう。

 しかし遺憾ながら、俺にそれは当てはまらない。その重く動かしがたい事実が日に日に苦しく思えてならない。自分が値打ちのない存在だなどと、どうして胸を張って言えるだろうか。自分も捨てたものではないと、誰も認めてくれなかったとしても、せめて自分の中でだけは、自分自身を特別だと思いたいのが本音だ。しかし、それを否定する材料が、人生にはあまりにも多くありすぎる。

 年々、謙遜も卑下もできなくなりつつある自分の姿を省みれば愕然としてしまう。歳を取れば取るほど他人に見下されたり馬鹿にされるのが、我慢ならなくなってくる。10代の頃の俺ならば、このような性向などあり得なかったはずなのだ。その一事だけでも自分が若くはないと実感しないではいられない。自分という存在とそれが歩んだ人生に、価値があると思いたいという執着を自分が抱いていると自覚するのは、大変情けない。

 

 中学生くらいの頃は、今とはまるで正反対だったような記憶がある。当時は自分の人生に斜に構えていられているほどの余裕があったのだろう。自分など大した人間ではなく、生きていても日の目を見ることも何かを成し遂げることもありえないのだと達観したような気になって捻くれていた自分を思い出す。未確定の未来を腹の底では楽観できていた。

 現在においてはもう、そんな余裕がまるでない。もう時間も未来も先もないということを、俺は本能で痛感しているのかもしれない。だから自分が良くて人並み、ともすればそれ未満な要素ばかり備えていて、逆転も克服もできない現実に直面し、耐えることができなくなっているのだろうか。悪足掻きや屁理屈、虚勢や妄想によって己の人生をどうにかして正当化したいのだとしたら、何とも浅ましいことだ。

 若い頃においては、本当の絶望などなかったのだが、今はそれを味わいつつあるのだ。後がなく、仮にあったとしても碌なものではないという揺るがない暗い未来に我慢がならない。歳をとっても一生青春、といった類いの言葉を引用して自らをいぶしようと試みても、ただひたすら虚しい。

 思い返せば始めから大した人生ではなかったのに、なぜ今ごろになって懊悩するのだろうか。俺の半生において順風満帆で幸福だった時期は皆無に等しかった。若さや幼さは絶望を直視するための目を曇らせる。逆に言えば齢を重ね、ようやく剥き出しの真実に退治できるようになったということなのかもしれない。

 俺には美しく懐かしい思い出も胸躍るような輝かしい将来もない。それは救いも望みもないということを意味してはいる。しかし見方を変えれば失うものが一切ないということでもある。何かを大切に思う必要が、俺には全く無いのだ。これはもしかしたら、とてつもない強みであると言えなくもないのではないだろうか。拠り所となる過去も目指すべき未来もないも存在しない。

 

 

 要するに怖いものなしだ。俺のせいにおいては、何かを大事に思う必要などない。だから何かを失ってもオオゴトでもなく、事件でも悲劇でもないと考えるべきだ。満ち足りた個人としてこれまで生きてきたならば、その生を台無しにしないように気を配らなければならない。しかし、そうでないならばあらゆる喪失や屈辱などお笑い草でしかないということになりはしないだろうか。

 絶望の果てに真の楽観がある。奈落の底が抜けた先にあるのが極楽なのだ。そう考えれば、この歳までオメオメと生きてきたことにもようやく意味を見いだせるというものだろう。何かを為す必要も守る義務もない。それが俺の人生であり、未練なく捨て身でいられるのが一番の救いとなるのだ。

 虚しいからこそ、執着せずに済む。幸福や愉悦とは無縁であるがゆえにあらゆるしがらみから解かれた状態でいられると考えるべきだ。極端な話、何も惜しくない。大した人生でない、この残酷な一つの事実にこそ本当の救済が隠されていたのだ。救いには一片の希望も幻想も存しない。だから人間は己の人生に絶望しなければ救われはしないのだと今は確信を持って言える。

 満たされることも秀でることもなく、ただ泰然として在る。不平不満は依然としてあり、後悔や失意も厳然と胸中にはある。だが、元々大した人生ではないのだから、それらの一切を甘んじて受けようと、今は思えるようになった。これから先、どれほどの災厄や不運が控えていようとも、それらもまた甘受する用意が今はある。なぜなら元々、大した人生ではないのだから。

 端から最低なら、これ以上悪くなりようがない。最悪な人生をどうやって台無しにできるようというのだろうか。幸福や愉悦と縁遠い人間だからこそ、安逸を味わうことができる。惨めさの只中にあってこそ、人は笑うことができるし、またそうすべきなのだと俺はこの生で学んだ。それだけが我が生涯における唯一の財産だと言える。