書き捨て山

雑記、雑感その他

内省

 何の脈絡もなく、感情に囚われることがある。別段衝撃的な出来事に見舞われたわけでもなく、悪人と邂逅して惨禍を被ったわけでもないにもかかわらず、発作的に悪感情に精神の全てが飲み込まれてしまうようなことが、俺にはままある。それは大変不快な状態で、自分でもどうにかしたいと常々思っているのだがそれが子供の頃から全くうまくいかないまま現在に至っている。

 今日は電車の中でそれが起こった。俺は平均よりも身長が低く、人混みの中にいると大半の男と比較して体格の小ささが浮き彫りになる。それを気にする時もあればそうでない時もあるのだが、今日においては後者であった。肉体的なコンプレックスが一気に心の内奥から噴出するような感じがして、俺の精神は劣等感に襲われた。それは帰宅して暫く経つまでの間、俺を苛み続けた。

  その念に苦しみながら俺はそれが常時抱いている感情ではないのに、と思った。俺が自身の身長にどんなときであっても劣等感を抱き続けているならばまだ話は単純だ。それは一生解決しないまでも、それが静的なものであるならば分析して対処すればそれの害を減ずることは不可能ではない。あらゆる情念や感情にも言えることだが、それが移ろうことなく、厳然と変わらずに存在する代物ならば、人間はそれを御したり制することにあまり腐心することはないだろう。

 自身の内面において惹起する全ては、突発的で予想が大変難しい。どのような状況下や心理状態が引き金を引くかが予測不可能だ。決まりきった法則性のようなものがあれば、それを見越して対策を打つことができるが、実際にはそうではない。そしてそれは一度起こったら俺の精神を容赦なく蝕み、俺の正気を失わせてしまう。今日の電車の中でも、俺は発狂したくなるほど追い詰められた。

 前触れもなく起こる感情は、さながら自分の中の別人が突如として出現したかのようだ。断りもなく、望んでもないのに現れるそれは、俺を徹底的に痛めつけるのだ。自分がとてつもなく価値がない存在であるように思えてくるし、その感情に意識が完全に支配されてしまって、心が自分の物でなくなるかのような感覚さえある。生存上好ましくない情動が俺を悩ませるとき、俺は己の中に全く別の他者が存在していて、それによって苦しめられているように感じられる。

 

 

 自身の内面や心そのものは、自分の領分だと考えるのが定説だ。しかし俺は、至高も感情も完全に制御する術を大人になった現在においても持っていない。それは俺の精神があまりにも未熟なのだからだろうか。この世の中には自身の精神的な領域について、完全に主導権を握り、一瞬たりともそれを手放すことなく生涯における全ての時間を完遂できるような人物が存在しているのだろうか。そしてそれが仮に実在するなら、それはどれほどの人数や割合で居るのだろうか。

 自分自身の心を完全にコントロールできる人間は、それほどいないはずだ。それに因る悩みなど世間ではよく聞くことであるし、それが出来ないことは別段異常だとか尋常でないということではないだろう。精密な機械を操作するように、思惑通りに自分の感情や思考を意のままにできる人間が稀であるから、それが出来ない苦悩や問題にまつわるエピソードが世に氾濫していると考えた方が自然だろう。

 自分の思い通りにならないものを我が物だとするのは、本来難しい。他者などはその最たるものだろう。どれだけ身近な存在であっても、自分でない個体としての他人を自在に操ることは出来ない。自分の願いや思惑に沿って動かないからこそ、人間は他人を他人として認識する。望みのままにならないものは何であれ自分には含めないのが正常な感覚だろう。

 ではなぜ我々は己の肉体や精神を他ならぬ自分自身だなどと無思慮に思い込めるのだろうか。心身ともに100%完璧に我意を反映して動かせるというのなら、疑う余地もないほどにそれらは自分だと見なせる。ところが現実にはそうではない。それを具体的に思い知るような経験を我々は嫌というほど積んでいるのに、なぜそれらが有している他者性に目を向けようとしないのだろうか。

 己の中に己ならざる何かがあり、それによって人間は苦しめられているように俺には思える。自分の肉体や精神が思い通りにならないのなら、そのままならない状況にあっては、体や心が他者として自分に立ちはだかっていると考える方が俺には腑に落ちる。自分の中に制御できない要素があるのではなく、自分でない何かが存在してるのだと考えるべきだ。

 

 問題なのはどれ若しくはどこまでが自己なのか線引きをしなければならないという点だ。自分というものを一体どのように定義すべきなのだろうか、いい大人になった今でも俺は時々そのことで頭を抱えることがある。自分の内面において意に反する己でない何かがいるのは明確だとしても、それでない疑いようがない自分というのは何処に見出だせば良いのだろうか。

 そもそも、心の中や精神的な領域に、絶対不可侵な自分が何らかの形で確実にあるという前提は果たして本当に正しいのだろうか。確固たる自分など本当は何処にも存在しないとしたら、俺はどうすれば良いのだろうか。敵対すべき他者しか、自分の内的世界に存在し得ないとしたら、俺はどこに、何に寄る辺を求めれば良いのだろうか。

 自分の中で自由が効かない心の動きによって俺が苦しんではいるが、その苦しんでいる自己は、一体どんな形で在るのか。その実在性を保証する何かはあるか。心中が穏やかでなく、それが自分にとって辛いと感じる。しかし、それを喫している自分が一体何処に存在しているか。改めて考えてみれば疑問を抱く余地は大いにあると言えるだろう。

 自己の内側に他者性が在るのではなく、精神的中核、霊魂とも言い表せるような確固たる自分自身というものが実は不在であったとするならば、俺は本当に苦しんでいるのだろうか。理不尽や不条理を被っている自分は一体何処に在るのか? それが判然としないのだとしたら、なぜ自分は苦しんでいるなどと臆面もなく断言できるのだろうか。

 自己の究極的な本質が不在なのだとしたとき、受難者としての俺は消失してしまうだろう。実はそのように考えた方が、遥かに楽で都合が良いと考えられはしないだろうか。外界・内界の別なく、何らかの原因や理由によって自分が苦しんでいる、あるいは苦しむ可能性があるという想定が、大元の諸悪の根源にほかならないのではないかという気すらしてくる。 

 

 電車の中で発作的に俺を襲った精神的な葛藤や煩悶がどのような理由や過程によってもたらされたとしても、それについて考えることは根本的な解決には繋がらない。この段に至ればそのようなことは本質には完全に無関係で、もはやどうでも良いとすら言える。それは眼前で起こっている現象について、ただ上辺だけを見て分かった気になっているだけの愚かな分析ごっこでしかない。

 自分がどのように苦しむかではなく、本当に自分は苦しんでいるのか、その苦しみは我が物か、苦しんでいる主体としての自我は本当に存在しているのか、それらの問いを念頭に置きながら深く深く内省するべきだ。自分の身長が平均より低いだとか、家の外で癇癪を起こして精神的に不安定になり立ち直るまで辛かったなどと言い立てたところで、それは皮相的な話を無意味に展開している無益な行為でしかない。

 もっとも、ただ単に苦しみたいなら話は別だ。自分は何によってどのように辛く苦しい目に遭っているか論ずることは徒に苦痛を増幅するだけだ。だが、そのようなマゾヒスティックな目標に向かっているならば、それはむしろ肯定されるべきだろう。それに固執するということは、本当は苦しみを被ることを礼賛・歓迎するのに他ならない。

 自分は苦しみたいのか、そうでないのかを明らかにしなければならない。そのどちらかによって、自分が目指すべき方向が変わってくる。本当は苦しむことで自己憐憫に浸り、自分自身が何者かを明確に捉えて安心したいという心理や欲求を、俺は抱えているのかもしれない。そうだとしたら、俺はもっと苦しまなければならず、苦を減じたり滅したり、それから遠ざかろうとするのは単なる無見識からの倒錯でしかないということになる。

 もしそうでないのだとしたら、俺は苦しむ主体としての自己が盤石で揺るぎない実体だという前提を覆す必要に迫られる。苦しむ自己が存在しないならば、被る苦の全ては幻想か、そうでなくてもそれは自分とは直接関連付けられるものではないということになる。そこに思い至れば、人生という受難劇の幕は下ろされ、あらゆる一切に終止符が打たれてしまうだろう。本当に心底それを望むなら、それは呆気なく俺の身に訪れ、その瞬間に全てが終焉を迎えてしまう。

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