書き捨て山

雑記、雑感その他

レジ前における情動

 スーパーのレジが2台しかなく、そのどちらも会計中だった。その事自体は別に珍しくもないことである。俺は何食わぬ顔でレジから数メートル離れたレジ待ちの列を作るスペースに立ち、前の客どもの会計が終了するのを待つことにした。それは俺にとって有り触れた、日常的な光景でしかなく、そのようなシチュエーションはこれまでに幾度となく経験したことでしかない。だがそれは、連中の精算が直ぐに済めばの話だ。

 レジの精算は待てど暮せど一向に終わる気配を見せなかった。それどころか勘定したり金を払ったりなどといった会計のために不可欠な挙動そのものが遅々として進められていない状態で優に3分は経過した。これにはさすがの俺も業を煮やして、視線を2台あるレジのそれぞれに投げた。どちらのレジにおいても、従業員はバーコードを読み込んだりレジを打ったりなどといった、本来の仕事とはまるで無関係な作業に忙殺されていたのであった。

 2台あるうちの俺から見て奥の方にあるレジは、中年の太った女が占領していた。女は大量の品物をレジ脇の台に置くだけでは飽き足らず、買い物かごに入れ忘れた物があるだのと言うと、精算作業中の従業員に仕事を中断させ、お目当ての商品を彼に取りに行かせた。俺はその様相を目の当たりにし、憤りを抱くというよりも、ただただ呆れるしかなかった。

 その手前にあるもう一方のレジは、男の二人組が陣取っていた。男たちは会社か何かの買い出しらしく、店員に領収書を切らせようとしていた。自分たちの会社名を領収書に店員に書かせようとするその連中は、社名のアルファベッドの綴りの指図だけでは飽き足らず、前株だか後株だかといった仔細についてあれこれ注文をつけていた。店員はそれに逐一応じなければならず、こちらも奥の方のレジと同様、金を払うという段に至るまで相当なモタツキがあるように見受けられた。

 そして極めつけは、どちらのレジもカードによる決済であった。現金による支払いならばすぐに終わるはずの精算が、カードの読み込みやら暗証番号の入力などといったフェーズの追加により、レジは延々と塞がったままであった。俺は立ち往生のままただ時間を無意味に消耗させられる羽目になった。また、それらのレジの前で行われる無意味で非生産的、更に言えばクソ客どもの身勝手せいで、俺は大変不愉快な思いをさせられた。レジの順番を待ちながら、俺は激昂に駆られ、我慢の限界に達する寸前であった。

 

 

 しかし、怒りの激情を必死に抑えながら俺はふと疑問を抱いた。この憤怒は一体誰のものなのだろうかと。俺は憤懣と自分を同一視し、目下の感情と己を疑いも躊躇いもなく同化させているが、その感覚や認識といったものは果たして本当に正しいのだろうか、俺はスーパーでレジ待ちをしている最中に考えた。心の中で起こっていることは、一から十まで完全に「自分」の範疇のものだと見なすべきなのか、それに正当性はあるのかどうか。

 紛れもなく俺は怒りに囚われているのを感じる。しかし、そう感じたからといって、それがいつも真実であるとは限らない。錯覚や誤認といったものは特別でもなければ異常な事態というわけでもない。この瞬間に俺の内面において生じたのは怒りや不服といった念であったが、それが他ならぬ自分自身であるかのように錯誤していただけだとしたら、自己について根本的に捉え直す必要があるということになる。

 感情即自分とは断言できない。なぜなら、それを証明する手段など存在しなからだ。たしかに俺は内心では怒り狂ったが、その感情を覚えたということとそれが自己の一部、または自分そのものだなどと何の根拠があって主張できるというのか。どのような思いを抱いたとしても、それが己自体でないとするならば、それに重きを置く必要性があると胸を張って言えるだろうか。

 傲慢で身勝手な客どもによりスーパーのレジが長時間ふさがり、俺は待ちぼうけを食らわされた。そしてそれを受けて俺は少なからぬ時間を無駄にし、そのことを不服として腹の底では怒りに震えていた。発生した出来事を要約して書き起こせばただそれだけのことにすぎない。その最終的に惹起した感情は、本当に自分自身を語る上で不可欠で絶対的な要素や事実であると言うべきなのだろうかという一抹の疑問や関心の方が、直情的な憤りよりも俺の内心においては勝った。

 感情とは上記のように、ある状況下や条件下において発生する代物である。それは完全に環境に依存して生じるものだ。理由や動機もなく嘆いたり怒ったりできる人間などこの世には存在しない。情緒にはその発端となる何かがあり、感情と自己を同一のものと見なすということは即ち、自分とそれを同化させることに他ならない。俺は無意識下でそれを当然だと感じ考え、それを疑ったり抗ったりすることなど殆どなかった。

 

 感情と自分を切り離すというのは絵空事や机上の空論のように思える。それができる人間は稀だし、できたとしてもそれは完全にというわけにはいかないだろう。かく言う俺もまた、その例に漏れず感情の処理や始末にはいつも悩まされている。レジ待ちで買い物に時間がかかったという一事だけでこれだけ心が乱れるのがいい証拠だ。しかし俺の一抹の理性が、猛り狂う怒りの中に完全に飲まれることなく、踏み留まっているような感じだ。

 前述の通り感情は環境や状況の産物であり、それと同化するということは外界の状態に内面が完全に左右されるということだ。目下の現状に支配されていると言ってもいいだろう。そこには一切の自由がない。自分の意志や決断によって憤っているように思えても、実際には単に振り回されているだけなのだ。意のまま、思うままに感じたり考えたりすることは、単に流されているにすぎない。

 沸き起こる情念よりも先に、それに囚われる不自由さを俺は感じた。流され、支配されている自分の姿を客観的に見るような視点が突如俺に備わったような感じがした。状況は確かに理不尽であり、不条理だ。俺が抱いた憤りには正当性があるだろう。しかし、それは単に環境や状況により作り出された現象に過ぎない。

 人間の内的現象としての感情や思考などは所詮、自然現象と同じ類いのものでしかないのだとしたら、それと己を重ね合わせたり同一視したりすることは、途端に愚の骨頂のように思えてくる。風が吹き雨が振り、真夏の暑さや真冬の寒さに晒される時、人はそれに自分自身を重ねたりするだろうか。そんな人間がいるとしたらそれは詩人か異常者かのどちらかだ。

 怒りや嘆き、悲しみや恨みなどといったあらゆる感情は、物理的な原則と同じように、ある条件が満たされれば起こり得るだろうし、再現も可能だろう。それは人間の内側から純粋に湧いてくるようなものではないのだ、実は。ある環境や条件を整えれば、ある情動は作為的に起こすことができる。それならば、感情が自分自身の本質だと見なすのは、あまりにもナンセンスだと俺は思う。

 

 

 ある感情に囚われたり固執したりするのは、外界や形而下の世界のしがらみに拘束されているようなものだ。気ままに振る舞っているようでも、本当は全く自由などない。無自覚に状況に流されて、絶えず惹起される言動や情動といったものに振り回され俺はとても窮屈さを覚えている。それから己を解き、自由を志向したいという願望が俺自身の中には確かにあるのだ。

 どんなものであれ、感情はそれ自体がさながら牢獄だ。感情即環境であり、悪感情は悪い状況下で生み出される。それと自己を同化するのだから改めて考えればそれが好ましくないなど自明なことだ。移ろう世界に身を任せ、それに影響されて思考や感情に飲み込まれて、俺は今日まで愚かな生き方をしてきたと言っていい。

 レジが他人どもの身勝手な都合のせいで、いつまでも塞がっている。たしかにそれは腹立たしいが、その一連の流れに身を委ねるかどうかを決めるのが、人間にとっての本当の自由というものなのだと、俺は身を以て実感した。

 自由とは気まま意のままに何かをしたり思ったりすることではない。悪い条件や環境のただ中にあっても、それらに完全に屈することなく望むべき態度や姿勢を維持し続けることが真の自由なのだ。だから例のレジの件でキレなかった俺は全くもって人間的に正し買ったと言えるだろう。

 この世はろくでもない所だし、生きている人間の9割9分は悪党の類いだ。そんな場所で、そんな連中に囲まれて俺は生きていかなければならないのだから、当然気分を害するのは日常茶飯事である。だが、その度に憤ったり嘆いたり、恨んだりしていてはならないのだ。環境や状況に屈することなく保つべき態度や姿勢、スタンスといったものを守ることが高潔で正しい生き方であり、レジの一件はそのことを俺に教えてくれたと考えるべきだろう。