他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

許さず、また許されず

 他人が俺に対して犯したあらゆる罪を、俺は絶対に許さないと心に決めている。何故ならば、犯した罪を完全な意味で償うことが可能な人間など、この世には存在しないからだ。その大小や多寡の問題ではなく、既にやってしまったことをなかったことや無効に帰することができる者が仮にもし居るのだとしたら、是非ともお目にかかりたいものだ。どんな人間であれ、他人に与えた痛手や損害を完全に帳消しになど絶対にできるはずがない。

 と言っても、便宜上なにかについて手打ちにしたり不問に付すことはままある。しかしそれは許すこととは似て非なるものだ。それは、これ以上追求したり言挙げしないということでしかなく、過失や罪業がはじめから無効になるという話ではない。たとえどれだけ些細で取るに足らないようなことで、場合によっては避け難いようなものであったとしても、それは同じだ。

 それは不寛容だと思う者もあるかもしれないが本来、客観的な事実関係というものには情状酌量の余地など一切ないのだ。仕方がないで済ませられるようなことなど厳密には存在しない。どのようなことでも、チャラや帳消しになどするべきでないし、できるはずがない。覆水盆に返らずと言うではないか。それはどのようなことについても該当する。

 にもかかわらず、この世の中はやれ許すだの許せだのとやかましい欺瞞で満ち満ちている。重ねて述べるが、俺は絶対に何があっても他人が俺にしたことを許すことはない。誰かが俺に対して与えたあらゆる災いや損失といったものは、たとえ天地がひっくり返っても無かったことには絶対にできない。また、心身に与えた傷や打撃なども同様に許すことはあり得ない。何にせよ、連中が俺にもたらしたものは取り返しがつかないのだから、それを許すなど以ての外だ。

 しかしそれは、俺自身が他者に対して犯したあらゆる罪悪についても同様だ。俺は己がしでかしたあらゆる悪行の数々について、申し開きや弁明など一切するつもりはない。俺は無意識的にせよ、沢山の悪事や迷惑を為し、多くの人々に害悪をもたらしたり、痛めつけるようなことがあったかもしれない。しかし、それについて許しを乞うようなことは絶対にしない。

 

 

 何であれ償うことが不可能な事柄について、一体何故許したり許されたりできるというのだろうか。俺には皆目見当もつかないのだ。俺はキリスト教徒や仏教徒ではないが、原罪や業といったものは万人が具有していると考えている。人間は生きているだけで罪深い存在であり、自覚もなく多くの悪を為し、また誰かを傷つけたり損をさせたりしているものだと思う。それらの一切は取り返しがつかないことで、どのような言葉や行動や、金銭による弁償でも贖えないものだと俺は考えている。

 つまり、責任能力の問題なのだ。償いや贖いという行為が本当の意味で可能な人間など冒頭で述べたように存在しない。それなのに、謝ったり代わりの何かを差し出せば済むなどと考える不遜な輩が如何に多いことか。どんなことでも端から無かったことには出来ない。これは何遍繰り返しても足りないから何度でも言い、または書かれるべきだ。それは自他共に、やらかした全てについて該当する。

 そのような現実から目を背け、取り敢えず設けられる手打ちや不問といった、「妥協点」を曲解して許しと言い換えるのは、それ自体がこの上ない罪悪だ。一度でも犯された罪は絶対に贖えない。それはまた、許すという行為や態度の不可能性をも表している。だから人は誰に対しても許すべきではなく、また許されようなどとも思ってはならないのだ。

 謝罪をされたことは今まで生きてきて数回ある。しかしそのどれもが、誠意のないものでしかなった。そしてそれの背景には、「この俺が頭を下げてるのだから、お前ごときは快く許して然るべき」という魂胆が透けて見えていた。そしてそれは、その腹の底を俺が察する能力がないだろうというある種の読みすら感じさせるような、そんな感じの謝罪であった。

 要するに、謝る気もなく、本心では悪いと思っているわけでもないのだ。そのことの是非は置いておくとしても、それで何故謝ろうとするのか俺には正直全く以て理解不能だ。おそらく、俺は相当侮られているのか、見下されているのだろう。その発露としての謝罪など何の意味もないし、それなら却って悪びれもされない方が俺としてはまだマシに思える。

 

 加えて言うともし仮に、心の底から謝りたいという気持ちで胸が一杯だったとしても、果たしてそれが一体何だというのだろうか。そのような気持ちによって、一体何がどう変わるというのだろうか。謝意に全く有用性がないと断言したとしても、決して言い過ぎではないと俺は思う。本心からの謝罪など、一円にもならないし、時計の針の進みを逆にすることもできない。それは全く無力で、無価値な代物でしかない。

 人間は気持ちの上でも即物的な意味においても、償う能力や可能性など、実のところ全くもって具有していない。その厳然たる事実から逃避し、謝罪という行為に意味や価値を見出すことの嘘臭さは、もっと問題にされてもいいのではないだろうか。贖える罪などなく、許される余地など本来ありはしないのだと、全ての人間は肝に銘じなければならない。

 何に対しても言えることだが、許されようと思う事自体がある種の傲慢さと無見識の表れだ。自分が許されうる存在であることを前提として何かをやったり言ったりする連中に、俺はずっと違和感や反感などの念を抱かずにはいられなかった。それを明確に言葉にして表明することはこれまで終ぞしなかったが、改めて考えればそのような手合いは自分には出来もしない、土台無理なことをさもできる、ないし出来ているかのように物を言っているのだから俺が感じた疑問も極めて当然のことだと言える。

 つまり、人の世には許しなどあり得ない。誰の、どのような行為であれ償いなど絶対に不可能だと、全ての人間は肝に銘じなければならない。そして、軽々しく謝ったり、何かを払ったり与えたりすることで帳消しにできるなどと考えるのは、相手への単なる侮辱にすぎないということを、ゆめゆめ心に刻まなければならない。それよりは、端から謝りもしないほうが、余程潔いよいとさえ思える。

 他方、誰かを許すことが出来ないといって、悩んだり苦しんだりすることもまた、人が犯す罪、ひいては人間自体への誤謬でしかない。罪を償ったり責任を負う能力など、はじめから人間にはない。だからこそ、何人たりとも許されるべきでもないし、許せないというのは至極当然かつ正当な感情だ。許せないという不寛容さは、狭量なのではなく正しい認識に基づいたものなのだということもまた、我々は念頭に置くべきだろう。

 

 

 「覆水盆に返らず」という言葉は完全無欠の真理だ。人間が犯す罪とそれの償いの限界や不可能性といったものについて、人は決して目を背けてはならない。生者は一人の例外もなく、許されざるものでありそれは盤石で決して揺るぐことはない。人が人を許すなど、現実とはあまりにも乖離しているのだ。それを現実の世界でやりおおせようとすれば、必ず無理が生じるだろう。

 許しという感情や行為は、神の次元のものだ。少なくともそれは、人間的なものではない。何故俺は他人を許されなければならないのか、また、何故俺は誰かから許されるというのだろうか。許すなど、人が人である限り実行不可能だ。それは極論でも極端な暴論でもない。本当に何かについて許されたいと渇望し乞い願うなら、人は神に祈るより他はない。

 結局、人間は犯したら犯しっぱなしの存在だ。そのことに責任を取るだのケジメをつけるだのと言ったところで、それは元々能力的に無理なのだ。代償は贖罪にはならない。手打ちにしたところで、なかったことにはできない。すみませんでは、済まされはしないのだ。そのことについて我々はいい加減、認めた方が色々な面で楽になれるように思える。

 罪悪感というのもまた、思い上がった不遜な感情だ。自分が何かによって許される可能性を毛ほども感じないならば、それはそもそも抱くはずもない思いだ。許されようと思わなければ、無用な情動に囚われることもなくなるだろう。自分の能力について、高く見積もるから人は、許されたいなどという誤った欲求を持ってしまう。いっそ許される可能性がないと考えたほうが、開き直れて気が楽になるだろう。

 人間など高が知れた無責任な存在にすぎない。それはさながら、自分の尻を自分で拭けると思い上がった幼児のようなものだ。自分が犯した過ちを償うことなど端から出来ず、そのような力などはじめから有していないと認めれば、罪や許しなどといった概念は煙のように消え去ってしまうだろう。元来人間などその程度なのだから、自分の罪業も他人の過失も、もとより誰も彼も贖いようがない。不可能な責任など、負いようもなくどうにかできるものではない。だから万人は全てにおいて、一切を気負わずに振る舞うくらいでちょうどいい。