壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

理解と無遠慮

 「お前のことは全てお見通しだ」と誰かに言われたらどう思うだろうか。お前について知らないことなど、この俺には何一つないのだと、面と向かって言われた時、どんな気持ちになるだろうか。それらのような言葉を受けて、嬉しがったりありがたがったりするような人間が存在するなど、俺にはとても思えない。逆にそれはとても傲慢で、許しがない不遜な発言だと俺は捉える。

 実際、社会においてその手の発言を堂々としてくる人間は少なからずおり、俺自身もまたそのような人種と関わりを持ったことはある。そのような局面でさも、お前のことを理解しているとでも言いたげな態度をとるような連中は大抵、ろくでもない人間であった。その手の人々は、単に自分よりも弱そうで格下の存在を、自らの手足の延長として思うままに操作したいという恐るべき欲動に駆られているだけだと断言していい。

 第一、他人を完全な意味で理解可能な人間など存在しないのは言うまでもない。出来もしないことを出来ているかのように言い、あまつさえ出来ていると思い込む厚顔無恥さには心底呆れ返る。他人を洞察したり分析する能力が自身に備わっており、それを発揮することでお前の魂胆や資質を見透かしているのだと言える神経は、最早羨ましいとさえ思える。

 また、それは発言者の能力の誇示だけでなく、知られている側に底の浅さを指摘していると見なすこともできる。内心や腹の底を全て知悉でき、また内外問わず一切を把握できるほどの、高が知れた存在でしかないのだと、面と向かって言っているに等しいと俺は感じる。なんでも知っているだとか、知らないことなどないなどと言うのは、相手を軽んじていなければ出来ない物言いなのだ。

 たとえどれだけ親しく、親しい間柄であっても、誰であれうかがい知ることが出来ない側面や知ることが出来ない領域というものがあるはずだ。そして、その人物における未知・不可捉な要素こそが他者性の本質なのだと俺は思う。相手を尊重するということは、己が捉えられない何かをその人が有しており、それは絶対に踏み込めないものなのだと認めることだ。

 

 

 他人を理解することは正しく、また不可欠なのだと世間ではよく言われる。相互理解が大切であり、その努力を怠るべきではないのだと盛んに言われている。同国人同士の間柄はもちろんのこと、他国や異民族の人間相手であっても、そのような言説はまるで真理であるかのように喧伝されている。相手を知ること、理解することは可能であり、また望ましい態度や姿勢であると信じられている。

 だが、俺は全くそうは思わない。先に述べたように、人間は他人を理解したような気にはなれても、完全に知り尽くすことは不可能だ。そのような出来もしないことを目標に掲げたりそれを礼賛したりすることにまず反対である。加えて、誰であれ他者を分かりうる、知ることが可能な存在だという前提で接触することの尊大さが、俺は何よりも気に入らない。

 一体何様のつもりなのだろうかと思う。当の本人は懐が深いようなつもりではいるがその実、他者の不可知な部分について、存在すら許容しないのだから。当て推量で遠慮もなく、他人についてあれこれと聞き出したり邪推したりするだけでは飽き足らず、お前はこういう人間だから、などと結論づけて相手を値踏みする人間が、不躾でなかったら一体何だというのだろうか。

 分かり合えないままにしておくのが、本来あるべき状態だとさえ俺は思う。理解し合えないから問題だと見なすのは、それ自体が不寛容なのだ。相手のうかがい知れない領域、知り得ない何か、それらこそが個々人の本質的な要素であり、それを白日のもとに晒そうとしたり、執拗に秘密を暴き握ろうとすることは尊厳の蹂躙でなければ、何だというのだろうか。

 開陳されない何かが相手にあるというただそれだけで、許せないと思うような人種は現実に居るし、俺はそのような人間によってかなり不快な思いをさせられてきた。不可解な未踏の領域を守ろうとするのは、その手の人間にとって不信の表明でありいわゆる「心を開いていない」と見なされるのだろう。それもまた甚だ気色の悪い精神構造だ。

 

 人間間の関わりの中で、理解という概念そのものがともすれば大変な害毒となっているのではないかとさえ、俺は思う。彼我ともに相互が理解し合える可能性があり、それを目指して対話を行い、行動をしていく。それは一見すれば良いことであるかに見える。しかし、その前提が却って偏見や誤解といった負の結果を生み出すケースの方が、実は多いのではないだろうか。

 人間が本当の意味で肝に銘じなければならないのは、不可能性の方なのだ。自分は他人を理解することが出来ず、他人という存在自体は永遠に未踏のフロンティアであり続ける。自分の理解力や洞察力の限界を肯定することが、実のところ人間に求められている望ましい態度であるように思えてならないのだ。

 それは果たして問題であり、改められないければならないことなのだろうか。俺は全くそうは思わない。逆に他者を完全に理解し把握できると考える方が前述の通り余程害悪をもたらすと思う。誰それのことが分からないといって嘆くものが世の中には多々いる。しかし、それの一体何が悪く、問題だというのか俺には皆目見当もつかない。それは極めて自然なことであるはずなのに。

 他者を知ろうとすることは、相手の私的な領域に土足で踏み込むようなものであると言っても決して過言ではない。かつて、俺について色々と根掘り葉掘り聞き出そうとする者がいた。俺の近況だけでは飽き足らず、俺が育った背景なども含めて、俺の心身にまつわる一切を、くまなく知ろうとしてきたのだ。それは俺の気分を著しく害する所業でった。

 もしかしたら、親愛の情からのことだったのかもしれないが、いい迷惑だ。無遠慮に自分の都合で相手から個人的な情報を引き出そうとする罪について、余りにも世間は無頓着でありすぎる。それが咎められたり否定されたりしているような場面など、俺はあまり見たことがない。相互理解を尊ぶ悪しき風潮が社会に蔓延しているような感がある。

 

 

 どのような人間であっても、教えたいことよりもそうでないことの方が圧倒的に多いものだろう。秘密が個人を個人たらしめるし、それを暴かずにそのままにすることだけが人間性への尊重となるのだと俺は考える。逆に、何でもかんでも詮索し、探りを入れるような輩は俺の尊厳を踏みにじり、蔑ろにしているのだと見なす。

 他者を尊重するということは畢竟、自分は相手を理解できないのだと認めることだ。逆に、それが出来ないということは相手を慮る気持ちなど端からないと見てよい。過剰に相手を理解しようとする不遜な行為は、悪行と断ぜられるべきなのにどうも世間においてはそのような風潮が醸成される気配すらないのは嘆かわしいことだ。

 決めつけるよりは、分からないとか理解できないとする方がずっと健全だ。無遠慮に邪推し、知ったような口を利くのは単なる傲慢に過ぎない。奴は俺が思っている通りの人間だろう、などと言いのける無神経さときたら! 不可知不可速な他者を想定できない者は、結局のところただただ傲慢なのだ。

 俺はずっと他人というものが理解できず、そのことでかなり苦しんできた。しかし、今にして思えばそれは無用な悩みだった。これまで述べてきた通り、他者性の本質は理解不能であることそのものであると考えるべきなのであり、相手のことが分からないなどというのは偏に正常なのだ。さらに言えば、それを問題にすることが却って問題であったと言える。

 分かり合えないと言う前提で、全ての他者と対峙すべきだ。それを踏まえた方が、色々と楽に他人と関わっていけるように思えてならない。万人と理解し合えるだとか、理解し合える誰かと巡り会えるなどといった偽りの希望に縋るよりむしろ、人間は他者という存在を知ることが不可能な存在であり、それは当然かつ自然で、人間存在への正しい認識なのだと考えるべきだ。