壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

未定義

 俺は未だに何者でもない。年齢的にはもういい大人でありながらも、俺は父親でもなければ仕事の上では役職付きの存在でもない。今、住んでいる地域において、社会の一員として認知されているわけでもなければ、趣味を通した何らかの繋がりに属しているのでもない。言うまでもないが、結婚はおろか恋愛に発展しうる可能性がある対象にすら事欠いている。おそらく俺は、親族連中の間においても、半ばはじめから存在していないかのような扱いを受けていることだろう。

 仮に俺が今日、忽然と姿を消したところで誰一人困らないどころか、それに気づくものすらいないだろう。会社の人間は俺が単に無断欠勤したと考えるだろうし、それが長く続いたところで解雇するだけだ。実家と現住所の間には相当な距離があるから、相当な期間音信不通でもなければ、俺が消滅したかどうか取り沙汰されることすらないだろう。

 つまり、俺は居ても居なくても同じだ。俺の存在など極めて矮小であり、人間的価値は低いと言わざるをえない。俺は孤独であり、それが変わる気配すら目下の生活においては見られない。自分とは一体何なのだろうか、などといった青臭い自問が暮らしの中で頭をよぎる。これまで生きてきて、幾度となく浮かんだ疑問だ。それについての自答もまた、とうの昔に出たものでしかない。

 俺は単なる田舎出の底辺労働者でしかない。それ以外のどのような属性も要素も、結局のところ持ち合わせてなどいない。そして、それを否定する材料など一つもなかった。それ以外の何かだと見なされる瞬間など全くないし、自らもまたそれではない自己をいくらでっち上げてみたところで、圧倒的な現実に打ちのめされそれ以外の自分はたやすく雲散霧消してしまう。

 ありのままの自分を直視することは、俺にとって耐え難いことだ。誰かにとって大切な存在でもなければ重宝されることもない。明日突然失踪しても、誰も気にも留めない男でしかない。単にそれだけのことに然りと言うことは、俺にはあまりにも辛すぎる。本心ではそれを否定したく、全く別種の何かなのだと言い張りたいにもかかわらず、その嘘臭さに自分でも辟易してしまい、結局その試みは頓挫する。

 

 

 醜く劣った存在でしかない己をどのように扱うか、思えば生まれてからそのことばかり考えてきた。自分が自分であると言う事実から逃避するために、俺は実に様々な遊びに興じたし、精神世界やスピリチュアル関連の情報を漁りもした。中学生くらいの頃は、脳開発や自己啓発などにのめり込んだことすらあった、それらの全ては畢竟、自分自身の無価値さから目を背けたいがための、虚しい行為にすぎなかった。

 学校でも会社でも、人並みにも満たない評価しか受けた試しがない。せめて、鶏口牛後の存在として劣等な集まりの中でも秀でるべきだったと思うが、それも最早あとの祭りだ。容姿にせよ能力にせよ、経歴にせよ態度にせよ、どんな点や面においても俺は他人から一目置かれたことなど、終ぞありはしなかった。俺は数合わせや道具にように使役される以外では、存在しないも同然であった。

 自分の境遇がもし他人事だったなら、そんなことをたまに夢想する。俺はきっと心の底からあざ笑うだろう。雑居ビルに住んでいる貧乏な津軽人など、嘲弄の対象でなければ、一体何だというのか。自分が自分であることは、俺にとってはまるで呪いや悪い冗談のようにしか感じられない。自身を指し示すあらゆる事実の羅列が、とてつもなく苦々しく思える。

 客観的な観点から見た俺を形作る諸要素の、一つ一つを俺は心底嫌っている。「これ」が何故、俺でなければならないのかとずっと不満と疑問を絶えず抱いていた。そして、それにまつわる殆どが先天的な要素であることも気に入らなかった。俺の選択や意思とは全く無関係に、俺は俺であった。自分で決めたのならまだ諦めがつくが、結局のところ俺は自分が自分であることを自ら決めたのではない。

 俺は社会的には最下層に属する個人だが、それは後天的に自分の選択でそうしたのではない。俺は鄙びた寒村で生まれ、底辺労働者として人生を全うするためにしつけや教育を受けた。さらに言えば、身体的なあらゆる特徴は両親の遺伝によるものだ。俺が俺であることを示す一切は、生まれつきのものだ。生まれた時点、いや生まれる前から、俺がこのような人間になる宿命は最初から定まっており、それは逃れられないものだと言える。

 

 自らをどのように定義するかは、先天的に予め決定づけられている。にもかかわらず、世間では自分の人生に責任を取らなければならないとされている。自身の経歴を振り返れば、俺は社会的な存在としての自己を認識しなければならなくなる。また、肉体的には鏡に写った像を見れば己を自認せざるを得なくなる。その度に、それらが自分だと定義しなければならないことへの窮屈さを覚える。

 定義された自己とはさながら牢獄のようである。思えばお前はこういう人間なのだ、そうならなければならないのだと親や教師を始めとした周りの他人たちから生まれてからずっと無理強いさせられてきた。現在、俺はとある会社の従業員として働かされているが、その職場においても社長や上役から社の一員というより彼らの隷属する存在として見なされ、それであることを常日頃求められる。

 自分自身を定義したり、他人から自分を定義されること自体が、俺にとってはもう不本意に思えてならない。お前には仲間としての意識や自覚が足りないと、いつかとある者に言われたことがある。俺はそれにもまた違和感を覚えた。一体いつ、どのような理由により、俺は彼の仲間になったというのか。仲間としての頭数に入られる喜びよりも、そんな疑問が俺の中に湧いた。それは彼の仲間として数えられる利点が俺に全く無かったからだ。

 何らかの定義をされ、何かだと見なされることは、それが肯定的であれ否定的であれ、俺には嫌なものだ。スタティックな存在として何かであることが、束縛にしか思えないのだ。それは、日本国民だとか人間などの広すぎるカテゴリーに含まれることですら同様だ。何かであることはそのまま形而上の牢獄にぶち込まれたような、そんな感覚に陥ってしまう。汝それなり、と言われた時、俺は囚人にさせられたような感じがする。

 俺は何者でもありたくない。どれほど社会において価値のある存在や客観的に見ても優れた何かであっても、何かであることそれ自体が俺にとっては最早本意ではないと確信できる。何者でもない、未定義の状態。それこそが俺が腹の底から志向できる境地であり、それは具体的に何が必要で何を達成しなければならないかという話ではない。むしろそれらの全く逆方向に、俺が目指すものがあると言えるだろう。

 

 

 己を未定義のままにしておくことは、実はかなりの難行だ。なぜなら、人間とは元来定義されることを望む生き物だからだ、特に自分自身については。そのような生得的な本能に逆らって、未定義の状態を志向し維持し続けることは、並大抵のことではない。何者でないよりは、たとえ低所得者だとか田舎者だとか、ネガティブな意味であっても何かである自分にアイデンティティを見出したほうが、本当はずっと楽だ。

 それでも俺は、やはり何者でもありたくない。それが俺の夢であり、生涯を通して完遂すべき目標だ。そしてそれを阻むのは世間の全てというよりもこの社会そのものだと言える。俺はハタから見れば単なるワーキングプア以外の何かではありえないし、そのような自己認識を社会全体が俺に強要するだろう。それに対してどのように対処するかが今後の鍵となるだろう。

 加えて、前述のような人としての本能としての性向とも対峙しなければならないだろう。自分に何らかの定義付けをするという行為は、あまりに自然に行われるため、人間はそれを自分がやっているということに自覚することすら難しい。何者でもない無為自然のままであり続けることは、最早覚者や仙人の域に達していると言っても決して過言ではない。その妙境に至り、それを継続し続けることは今生で俺が為さなければならない一種の修行となるだろう。

 それは世俗的な努力とは対極に位置する。何も成さず、作為的でない状態であり続けるなど、普通の感覚で言えば単なる無能になるということに他ならない。そのような生き方は結局、世間においてはボンクラとかウスノロと呼ばれるようなものでしかない。それでもそれをやり通すなど、正気の沙汰ではないだろう。仕方なくそうなるのではなく、明確な意志のもとにそうであろうとするのだから、狂気的だとも言える。

 定義不能な存在となることは狂気の世界の住人になることだ。父親でも地域社会の異一員でもなく、金持ちでもなければ誰かの恋人でも友人でもない。そんな存在としての己を完全に肯定し、未定義な「なにものか」であり続けること。あらゆる外圧や自己の中の欲求をはねのけて、それであり続けること。それは言うなれば完全なる自由であり、定義を始めとした一切からの解放を意味する。